Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【ABCD包囲網】陰謀論 浜の真砂は尽きるとも【ハル・ノート】

前回、前々回と、陰謀論陰謀史観)についての記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

今回は、陰謀論三部作の完結編です。まあ、本当は三回も書くつもりはなかったので、完結編とか今思いついただけですが。
前々回はユダヤフリーメーソンコミンテルンの各種陰謀論田中上奏文、前回は真珠湾陰謀説を書いたので、今日はそれらの補足記事です。

 ヤツはユダヤ人でフリーメーソンコミンテルンだったのだ。あとCIAでKGBで…

なんか、色々大変そうな人ですね。
さておき、前々回記事の補足です。

世には多様な陰謀論がありますが、ユダヤフリーメーソンコミンテルンは比較的メジャーな部類です。
いずれも、裏から世界を操っており、その魔手は各国首脳を思うままにしちゃうくらい。
(ということになっております。)

しかし、ここで疑問が一つ。
仮にこの三つの陰謀論が事実とした場合、世界を操る組織が三つも存在することになります。
その場合、当然バッティングが発生しますが、どう折り合いをつけているのでしょうか。

具体例として太平洋戦争の勃発を例に挙げましょう。
陰謀論支持者によれば、太平洋戦争はユダヤ人やコミンテルンの謀略により、「日本が騙されて」開戦にいたった、とされています。
例えば、ユダヤ系のモーゲンソー米財務長官がローズヴェルトを動かして以下略とか、その部下のハリー・ホワイトがコミンテルンのスパイで以下略とか。
普通に考えると、各陰謀説支持者は、他方の陰謀説を否定しないと、理屈があわないはずです。

しかしながら、ユダヤ陰謀説支持者がコミンテルン陰謀説支持者に反論しているところなどは見たことがありません。
それどころか、あるところではユダヤ陰謀説について熱烈に支持している人物が、別の場所ではコミンテルン陰謀説をこれまた熱烈に支持していることも珍しくないです。

ま、陰謀論では、とかく感情的な話が先行して理屈は後付け*1からしょうがない。とか言うと身も蓋もなくなっちゃうので、言わなかったことにしますが、とにかく不思議なことではあります。

ただ、そうやって不可解な点を棚上げすることを、良しとしない方もおられます。
これはネット上で見られた見解ですが、「多くのユダヤ人はフリーメーソンにも加入している」という神仏習合もかくやという、驚くべき解決策が提示されています。

ユダヤフリーメーソン陰謀論は、伝統的に親和性が高いらしく、戦前にも併記されています。
以下、1944年の白鳥敏夫(当時駐イタリア大使)*2の記述。

今度の戦争は本質においては日本の八紘一宇の御皇謨とユダヤの金権世界制覇の野望との正面衝突であり(中略)エホバを戴くユダヤ及びフリーメーソン一味のすめらみことの地上修理固成の天業に対する叛逆行為である。

上記はロックとクラシックの融合ユダヤ陰謀論フリーメーソン陰謀論の融合ですが、残念ながら(?)ユダヤ人の多くはコミンテルンにも加入、などという見解は未だ見たことがありません。
しかし、同一人物が、それぞれ異なる場所で、ユダヤ人にされてたり、コミンテルンにされてたりするのはあったりします。
ヒトラーとか、共産主義自体がユダヤ人の陰謀だという電波を飛ばす人はいました。ちなみに、中国河北省東部にあった日本の傀儡政権、冀東(きとう)防共自治政府*3も同じ見解を出してます。)

ちなみに「世界を操る」的陰謀論には、比較的最近になって出現した「三百人委員会」というのもありまして、この組織はユダヤフリーメーソン、CIAを従えているそうです。

日本が挑発された説

前回記事は、真珠湾陰謀説について取り上げました。
ほぼ、真珠湾攻撃についてのみ言及しましたが、真珠湾陰謀説では、大抵

「あめりか、にほんおいつめて戦争させた。にほん、わるくない。」

という、「きれいなにほん」説がセットになってますので、少しメジャーどころを取り上げてみたいと思います。

ABCD包囲陣(ABCD包囲網

「きれいなにほん」説の概要は、アメリカまたはアメリカを中心とする各国が軍事的、経済的に日本を追い詰めたので、日本は自存自衛のため戦争に踏み切った、というものです。

これの典型が「ABCD包囲陣(ABCD包囲網)」を過大評価するものです。
「ABCD包囲陣」は教科書にも載ってますが、アメリカ、イギリス、中国、オランダが日本に対する軍事的・経済的封鎖を行ったもの、とされています。
しかし、このABCD包囲陣には実体が伴っていません。

軍事的封鎖

まず軍事面について。

ABCD包囲陣における軍事面での各国ライン形成は、英米を中心とする軍関係者の二回の合同幕僚会議とされています。
確かに1941年の1月から3月にかけてワシントンで、4月にはシンガポール英米の軍関係者による合同会議が行われています*4が、これらの会議の報告書は、結局ローズヴェルトからの承認を得られていません。
実のところ、上記の英米蘭軍事協議は軍上層部の了承を得ていたものかすら不明であり、早くから日米戦争を三国が協議して計画していたとの証拠とはなりません。

また、後述する、アメリカの日本資産凍結が行われた際には、オランダ領東インド(以下、蘭印と呼びます)政府は、直接的に日本の脅威にさらされる可能性が高いことから、アメリカに対し軍事援助の有無を問合せています。これは、協調などできていなかったことを伺わせるものです。
(ちなみに、アメリカからの明確な回答はありませんでした。)

これらを鑑みても、軍事的には包囲陣どころか各国連携が出来ていたのかさえ疑わしいと言えます。

経済的封鎖

次に経済面について。

アメリカは、1941年の7月25日に在米日本資産の凍結を、次いで8月1日に石油の対日輸出についての許可制導入や、航空機用ガソリンの輸出禁止などを実施します。
このアメリカの一連の措置にイギリス・オランダとも追随します。
しかし、このタイミングでの実施はイギリス、オランダとも予想しておらず、前述の通り、蘭印政府はアメリカに軍事援助の有無を問合せたりしてます。
また、これらの措置の前、7月14日にはイーデン英外相から日本を追い詰めることの懸念がウェルズ国務次官に伝えられています。
しかしながら、結局アメリカは資産凍結に踏み切り、さらには資産凍結にあたりイギリスへの相互了解を取り付けるなどもありませんでした。イギリスは不安を抱きながらも、仕方なくアメリカに追随しています。

なお、よくアメリカが対日全面禁輸を行ったと言われてます。間違いとは言えないのですが、事実はそう単純でもありませんでした。
ローズヴェルトは在米日本資産凍結の前日7月24日、閣議において、国務省海軍省に対し、資産凍結は全面禁輸をもたらさない、と確約しています。
また、資産凍結下での貿易を可能とするため、許可制による貿易システムが各省官僚たちによりプラニングされていました。
しかし現実には貿易は完全に停止してしまい、日本には一滴の石油も渡らない事態となります。
なぜ、このような事態になったのか、このへんの過程は未だ「歴史の謎」となっており、学説の中にはローズヴェルトやハル国務長官は9月に入るまで、石油輸出が止められていることを知らなかった、というものもあります。興味のある方は「日米開戦と情報戦」などの書籍をご参照ください。

そんな訳で、一般にイメージされるABCD包囲陣と異なり、その実態は非常にあやふやなもので、「存在しない」と言っても過言ではありませんでした。
そもそも、「ABCD包囲陣」という言葉自体が日本側が主張したものであり、プロパガンダの一環と言ったほうが適切だと思います。
(余談ですが、ABCDの内、CはChina、すなわち中国と思ってる人が多いかと思います。実は、これ、中国ではなくて、蒋介石あるいは重慶を指しています。日本は、前年末に、汪兆銘を首班とする国民党政府を承認しており、建前的には中国は友邦なのです。)

とは言え、軍事面ではともかく、経済面では結果的には全面禁輸となっており、「やっぱり追い詰められたのは事実じゃないか」という人もいるかもしれません。
しかし、この指摘は、前後の状況を無視したものと言えます。

まず、資産凍結や対日禁輸の一連の措置は、日本の南部仏印(現在のベトナム)進駐に対するものです。
南部仏印への進駐は、当時、アメリカの植民地であったフィリピンの喉元へ、ナイフを突きつけるようなものでした。
すなわち、日本の軍事行動に対する制裁として行われた措置なわけです。

もう一点。
日本は石油が手に入らなくなったので、やむなく戦争を決意したとか言われてますが、実は、7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要領」で、「南方進出の態勢を強化」し、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞さず」としています。
で、この「南方進出の態勢を強化」というのが、前述の南部仏印進駐であり、主な目的は、米英開戦時に予定していた「南方作戦」のための出撃基地獲得でした。

そんな訳で、ABCD包囲陣とやらの資産凍結が戦争を決意させたわけではありません。
(まあ、そんな国策を決めておきながら、実際にはどうするか迷いまくっていたのが日本なのですが。)

ハル・ノート陰謀説

簡単ながら、ハル・ノート陰謀説についても少し触れておきましょう。

日本では、アメリカがハル・ノートのような強硬なものを出してきたので、戦争に踏み切らざるを得なかった、というハル・ノート陰謀説が大手をふってまかり通っています。

これについては、まず、「大日本帝国が平和に暮らしてたら、突然、アメリカがハル・ノートを叩きつけてきた」なんてわけじゃない、ということを指摘したいと思います。

アメリカが日本に対する態度を硬化させるのは、日本がドイツ、イタリアと三国同盟を締結した時点からで、その後、日本の北部仏印進駐により緊張が高まっていきます。
そんな状況の中、1941年3月8日から日米交渉が行われますが、結局、双方が妥協点を見出すことができず、開戦に至ったわけです。
ハル・ノートを出したアメリカは、これで戦争になることを予想していましたが、実は日本も11月5日の御前会議にて、日米交渉が不調に終わった場合は12月初旬に武力発動することを決定しています。

ついでに言うと、ハル・ノートが出された時、既に南雲機動部隊はハワイに向けて出撃していました。
開戦・避戦いずれになるのか判然としない状態ながら、真珠湾攻撃のために出撃し、開戦決定となれば、予定通りハワイ真珠湾奇襲を行う計画だった訳です。ハル・ノート陰謀説を唱える人が、この点について理にかなう説明をしたところは見たことがありません。

ちなみに、ハル・ノートについては「コミンテルンのスパイが作成してて〜」という陰謀論もありますが、それについて興味がある方は「検証・真珠湾の謎と真実」などをお読みください。

最後に

気まぐれから、3回にわたって陰謀論陰謀史観)の記事を書いてきました。
あらためて見なおしてみると、石川五右衛門の辞世の句(といわれている)を借りて、「浜の真砂は尽きるとも世に陰謀論の種は尽きまじ」という感です。

宇宙人がどうとかいう、比較的、罪のない陰謀論ならまだ良いのですが、ユダヤ陰謀論などはホロコーストの一因ともなった非常に悪質なものですし、また、太平洋戦争等における日本の立場を正当化しようとする陰謀論も、世論を奇妙な方向に捻じ曲げかねません。
私は、これらの陰謀論は、けして軽視するべきものではないと考えています。

そんなわけで、最後に、陰謀論に対する「免疫力」獲得のため、陰謀論の特徴を秦郁彦陰謀史観」より少し引用します。
以下の特徴に当てはまるものには気を付けましょう。

  • 因果関係の単純明快すぎる説明
  • 飛躍するトリック
  • 結果から逆行して原因を引き出す
  • 挙証責任の転換
  • 無節操と無責任

参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を参考にさせて頂きました。

陰謀史観

検証・真珠湾の謎と真実

日米開戦と情報戦

決定版 太平洋戦争1 「日米激突」への半世紀

昭和史の論点

日米戦争と戦後日本

 

 

*1:なので、しばしば筋が通らない。

*2:外交官・政治家。三国同盟を推進したかどでA級戦犯容疑をかけられ終身禁固刑とされたが、1949年6月に病死。

*3:関東軍の傀儡政権、といったほうがより実情に近いかもしれません。なお、愛国だか保守だかの人が「中国人の残虐性」をアピールするために出してくる通州事件は、この冀東政権麾下の保安隊が反乱した事件です。傀儡政権の軍隊の反乱により、日本居留民が殺害されたわけで「飼い犬に手を噛まれた」なんて表現する人もいるのですが、愛国だか保守だかの人は「傀儡政権」の情報をばっさりカットしてくることが多いです。ついでに、殺害された日本居留民の半数は朝鮮人だったわけですが、この辺の情報も大抵カットされます。なにか不都合でもあるんでしょうかね?(白々しく)

*4:シンガポールでは、オランダ、ニュージーランド、インドも参加。ただし、佐官クラスによる会議。