Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【旧日本軍】手榴弾あれこれ その2【日中戦争・太平洋戦争】

 前回、手榴弾についての記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

今回はその続き。手榴弾にまつわるちょっとした話を。前回同様に旧日本陸軍のネタが中心です。

榴弾が重要視されるまで

白兵戦が重視される旧日本陸軍の歩兵にとっては、手榴弾は極めて重要な武器でした。
日本陸軍での(一応の)スタンダードな使用法としては、突撃準備で一斉に敵陣に手榴弾を投擲、爆発と同時に突入する、というものが挙げられます。

しかしながら、陸軍は当初から手榴弾を重視していたわけではありません。
陸軍が手榴弾に注目するきっかけは、日中戦争での経験でした。

日中戦争での主敵であった中国国民党軍は、ドイツから軍事顧問団を招いて戦術を学び、また多くの兵器を購入していた経緯があります。手榴弾についてもドイツから購入、またはコピー生産して装備していました。

(日本)陸軍歩兵学校編「手榴弾教育の参考」(1939年)に、中国軍が手榴弾を多用していた旨の記述があり、「支那軍は手榴弾の装備が豊富なので昼夜を問わず各種戦闘を通じて常に手榴弾を使用し、近接戦においてはほとんどこれによる」と言及されています。
中国軍は、防御・攻撃いずれにおいても、大量の手榴弾を一斉投擲する戦法を多用しましたが、それに対して、日本軍は手榴弾の装備数も少なく、手榴弾戦での劣勢を強いられることが多々あったようです。
ちなみに、張鼓峰事件*1でも敵方手榴弾に手痛い目にあわされたことが、秋永部隊(歩兵第七十五連隊)の従軍記念誌に記されています。ソ連軍との交戦において手榴弾の投げ合いとなったが、自軍手榴弾の不足により苦戦、負傷者が続出した、とのこと。
(ただしこの記述は、衛生上等兵が奮闘して中隊長以下20余名を救助したという「美談」に出てくるもので、本来は手榴弾の不足が主題の話ではありません。)

これらの戦闘を経験した現場から、手榴弾戦法・用法の見直し*2および自軍手榴弾の改善が求められました。その結果、1940年の歩兵操典*3改定において、手榴弾用法が本文に記載*4された上で明確化され、また手榴弾自体についても装備の充実が図られることとなります。

榴弾が一番/誰もが欲しがる手榴弾

こうして、旧日本陸軍での手榴弾の「地位」が向上、多用されるようになりました。
太平洋戦争時、ソロモン諸島での任務についていた第一七軍司令官の神田正種中将はジャングル戦においては小銃や軽機関銃よりも「手榴弾が一番好い」との回想を残しています。

また、手榴弾は投擲される以外に、仕掛け爆弾としても多用されました。ワイヤーとつなげて、これに触れると手榴弾が落下*5し爆発するという、多くの方々が「ブービートラップ」としてイメージするだろう使い方が多く記録されています。他にも簡易地雷として使われることがありました。

榴弾の使い方についてもう一つ。ニューブリテン島で悲惨な撤退戦を行った歩兵第五四連隊将兵いわく
「糧秣同様に大切なものは手榴弾であり誰もが欲しがっている。若し生きられぬと考えた時は自決する為である」
…ちょっと哀しすぎるんですけど。

明るい手榴弾

日本陸軍は、夜間攻撃を非常に重視*6していましたが、手榴弾はその際の主兵器でもあります。
しかし、旧日本陸軍の手榴弾は夜間攻撃に向いてない、という声が現場から挙がっていました。

「歩兵第二百十三聯隊戦誌史」における、第一中隊長の鴨志田信義中尉による記述。
インパール作戦での打ち合わせの際、ビルマ方面軍参謀より意見を求められ、「日本の手榴弾は曳火式なので、夜間に発火すると明るくなって所在がバレる。敵の手榴弾のようなものが欲しい」(大意)と言ったところ、「日本軍の兵器にケチをつけるか」と叱られたとのこと。

なお明るくなる他に、ガス孔から煙をなびかせながら飛んだりもしました。その煙で火傷することもあったとか。

榴弾とコンドーム

せっかくなのでもう一つ。
日本陸軍の装備体系は、南方の湿気や雨を想定していませんでした。
(想定していたのは、主にソ連戦です。)
そのため、多くの装備で不具合が出たようです。ブーゲンビル島より帰還した芳村正義中将が、大本営に「山砲弾等七割不発」と報告したという話も。

榴弾も例にもれず、安全装置が腐食して数多くの犠牲者が出たとの記録が残っています。
魚取りに手榴弾を使っていた兵が、手榴弾の暴発により死亡したこともあったとか。

なお、前述のブーゲンビル島に敗戦までいた神田正種中将の回想録に、手榴弾は導火線が湿るのでダメになりかけたものの、野戦病院に山積みされていたサックで防湿することで良好な状態を保てた、という記述があります。
なお、サックというのはコンドームのことで、第六師団が中国から南方に転戦する折、性病対策のため上海中の薬屋から買い占めたものだそうです。

 

 

*1:1938年の7・8月に起こったソ連との国境紛争

*2:敵手榴弾への対抗策を含む

*3:歩兵運用マニュアル

*4:それまでは付録への記載でした。

*5:日本軍の手榴弾は打撃信管が多いので、「落下」することが重要だったりします…。

*6:夜間攻撃や奇襲が大好きでした。この辺もいろんな話があるのですが、いずれ機会があれば。