Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日中戦争/太平洋戦争】日本の敗戦と犠牲者数および富の損失【終戦記念日】

1945年8月15日正午、昭和天皇による終戦詔書大東亜戦争終結詔書)がNHKラジオにより放送(玉音放送)され、日本国民に「大東亜戦争」における日本の降伏が伝えられました。

終戦記念日である本日8月15日の記事は、日本の敗戦および日中戦争から太平洋戦争にかけての、日本国民の犠牲者数について。ついでに資産損失なども。
(なお、日本国民以外にも本当に多くの犠牲者を出しているのですが、本記事では日本国民の犠牲を中心としています。)

敗戦に至るまで

簡単ながら、日本が降伏に至るまでの経緯をなぞってみましょう。

1944年6月マリアナ沖海戦で敗北した日本は、同年7月にサイパンを失陥します。これにより、日本本土は米爆撃機B29の行動圏内に入りました。
1944年11月からは本土空襲が始まり、日本の戦争経済は急速に崩壊していきます。
(この時点で日本に勝ち目は無くなりました。ちなみに7月6日には、中部太平洋方面艦隊司令長官、南雲忠一海軍中将*1が自決しています。)

サイパンの失陥を機に、岡田啓介らを中心とする重臣グループは東条内閣の打倒工作に乗り出し、東条の抵抗によるすったもんだ(海相更迭や異常な兼任の解消、重臣入閣画策など)はあったものの、東条内閣は総辞職となり小磯国昭予備役陸軍大将による新内閣が誕生します。
この際、天皇の強い意向で和平派の米内光政が海軍大臣として入閣、米内海相−井上成美次官-高木惣吉少将のラインによる終戦工作が秘密裏に開始され、日本は終戦に向けて舵を切り始めることになりました。
しかし、小磯内閣もはかばかしい成果を挙げることは出来ず、1945年4月に退陣、鈴木貫太郎内閣に交代します。

さて、この辺から降伏までの主な過程を追ってみましょう。

6月8日 御前会議(本土決戦方針を決定)

5月7日のドイツ降伏を受けて、アメリカのトルーマン大統領は日本に降伏を勧告します。
これに対し、日本は5月11日から六巨頭会議(首相、外相、陸相海相参謀総長軍令部総長)を経て、6月8日の御前会議で本土決戦を正式に決定します。
なお、この際、戦争目的が「国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」と再定義されました。本土決戦に勝って、国体と領土だけでも確保できれば、戦争目的達成です。
ゲーム風に言うと、勝利条件が緩くなったわけです。実現できるかはさておき。
(ちなみに、太平洋戦争では日本の戦争目的が割とあやふやでした。細川護貞*2の日記に、開戦後2年を経過した1943年末に至っても政府と軍の間で戦争目的に関する議論が繰り返されていたことが記されています。)

6月22日 秘密御前会議(対ソ外交交渉を決定)

6月22日、昭和天皇自らの発意により、懇談会と称して秘密御前会議が開催されます。
軍事と並行して、外交を行うよう指示がなされました。これを受けて、7月13日、ソ連に対し和平の仲介を申し入れを行います。
しかし、この時すでにソ連は対日参戦をアメリカに約束しており、ソ連は日本に対して曖昧な態度を取り続けて回答を引き延ばします。

7月27日 ポツダム宣言受信

7月26日、英米中はポツダム宣言を発表します。
ポツダム宣言は、米戦時情報局(OWI)による放送を通じて、7月27日に日本外務省や陸海軍が受信しますが、翌7月28日には日本政府によるポツダム宣言「黙殺」がメディアにより報道されます。
この「黙殺」は、鈴木首相の失言と言われていましたが、実際には首相の記者会見より前に、各メディアが「政府は黙殺」「笑止、対日降伏条件」などの扇情的見出しを付けて報道したようです。
同日午後、鈴木首相の定例記者会見が行なわれ、各メディアは「ポツダム宣言カイロ宣言の焼き直しであり重視せず」との鈴木首相の発言を報道。米メディアは「ignore(無視)」「reject(拒否)」と訳して報道しました。
このため、世界は日本政府がポツダム宣言を無視または拒否したものとして受け取り、これは、米国の原爆投下、ソ連の対日参戦に口実を与えることとなります。

8月6日 広島への原爆投下

8月6日8時15分、広島に原爆が投下されます。
トルーマン大統領は、投下した爆弾は原子爆弾であると発表。日本陸海軍は調査団を広島へ派遣します。

8月9日 ソ連の対日参戦/長崎への原爆投下

8月8日、ソ連は日本に対して宣戦布告を行い、翌8月9日未明にソ連国境から進撃を開始します。
日本はソ連参戦の兆候を事前に掴んでいたようですが、ソ連参戦時期を見誤ったと言われています。

これを受けて午前10時半より最高戦争指導会議が開かれました。

同8月9日11時、長崎に原爆が投下されます。

同日午後には、二度の臨時閣議が開かれましたが、22時を過ぎても意見がまとまりませんでした。

8月10日 御前会議(国体護持を条件としたポツダム宣言受諾)

8月10日、午前0時3分、御前会議が開かれます。
会議では、阿南陸相、梅津参謀総長豊田副武軍令部総長による、降伏にあたっての4条件要求(国体護持・自主的武装解除・自主的戦犯処罰・保障占領拒否)が焦点となりました。
米内海相東郷茂徳外相、平沼騏一郎枢相の3名は、4条件を提示して決裂することをおそれ、1条件(国体護持)のみでのポツダム宣言受諾(外相案)を主張します。

午前2時頃、鈴木首相が昭和天皇へ意見を求め、これに対し昭和天皇は明確に外相案を支持します。、いわゆる「聖断」ですね。

10日早朝、日本は連合国に対し、「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件にポツダム宣言受諾を申し入れました。

8月14日 御前会議(連合国回答文の受諾を決定)

8月12日午前0時45分、米サンフランシスコ放送は、日本の申し入れに対する連合国回答文を放送します。
降伏後の天皇の処遇については正面から触れず、以下のように伝えられました。

  • 降伏後、天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。
  • 最終的の日本国の政府の形態は、ポツダム宣言にしたがい、日本国民の自由に表明された意思によって決定せらるべきものとす。

この回答は国体論者を刺激し、陸海軍の両総長による受諾反対上奏、陸軍内部におけるクーデター主張などが起こります。

8月14日、昭和天皇の発意による御前会議が開催され、昭和天皇の二度目の「聖断」により、連合国回答文の受諾が決定されます。

8月15日 玉音放送

8月15日正午、冒頭でも述べましたが、昭和天皇による終戦詔書大東亜戦争終結詔書)がNHKラジオにより放送(玉音放送)され、日本国民に「大東亜戦争」における日本の降伏が伝えられました。

日中戦争〜太平洋戦争の犠牲者数

さて、ざっと降伏までの経緯をたどってみました。
ここからは、冒頭で述べた通り、日本国民の犠牲者数について書きたいと思います。

日中戦争勃発から敗戦まで、植民地籍の人も含めて、少なく見積もっても、戦死者(戦病死含む)約230万人。これに加えて、民間人犠牲者が約80万人。

生き残った人々も、家族や親しい人の喪失、体や心の傷、経済的損失、生活基盤の崩壊などを被りました。

なお、戦死者の内、餓死が約60万人といわれています。
(栄養失調での抵抗力喪失による病死などを含めた「広義の餓死」は戦死者の6割に達するという意見もあります。)

また、移動中の輸送船撃沈による海没死が40万人と推定され、輸送船船員の死者は6万人におよぶといわれています。

内地の人口統計を見ると、1936年までは毎年1.5%前後増加していたところ、37年以降は0.5%前後となり、戦争による犠牲者発生の影響が明確にみられます。
ついでに、1943年の人口は7390万人ですが、2年後の1945年の人口は7260万人、すなわち2年で130万人が減少するという異常値も。

ちなみに、民間人犠牲者の大部分と戦死者の約3分の1は、サイパン陥落から敗戦までの約1年強に生じており、仮にサイパン陥落時点で降伏できていたなら、死者は約半分、民間人犠牲者も極小数にとどまっていただろうという指摘もあります。

富の損失

工場やその生産設備、船舶、航空機、鉄道車両、ビル、学校など、日本の国富は敗戦時の時価換算で4分の1が失われました。

ちなみに、この時期の軍事費は約7560億円、同時期の国民総生産の3分の1から半分に相当し、現在の貨幣価値に換算すると2268兆円に達します。

最後に

冒頭で述べた通り、上記の犠牲者数、損失は日本のみとなっております。
アジア戦域での日本人以外の犠牲者数の正確な数はわかりませんが、各国推計を合計すると1900万人となります。富の損失についてはもはや算定しようもありません。

近年は、またぞろ日本の戦争責任についての議論が目につくのですが*3、海外に対する戦争責任だけでなく、日本国民に対する日本国政府の戦争責任についても、もっと議論すべきじゃないかなあ、などと愚考するしだい。最近、同じことばかり言っててなんですが。あと、一億総懺悔とかふざけるなと思いました。おしまい。

参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

昭和史講義

昭和史

 

 

*1:南太平洋海戦後、佐世保鎮守府長官、第一艦隊長官などを経て中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン着任。死後海軍大将に昇進。

*2:細川護煕元首相の父

*3:議論になってないという指摘も…。