Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争を知ろう】インパール作戦 顛末記【太平洋戦争】

最近、NHKインパール作戦についての番組が(一部で)話題になりました。インパール作戦の凄絶なまでの酷さは、視聴者に結構な衝撃を与えたようです。
余談ですが、太平洋戦争では「これはひどい*1」とつい洩らしてしまうような作戦が多いです。
それもあって、個人的にはインパール作戦の番組が(一部とは言え)これほど話題になるとは意外でした。してみると、まだまだ「旧日本軍の凄さ」は日本国民に知れ渡ってないんだなあ、とあさっての方向に感想を抱いたり。

さておき、せっかくなので、本日はこの時流に乗ってインパール作戦について語ってみます(遅え)。

インパール作戦の概要

インパール作戦は、在ビルマ第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の構想によるインド進攻作戦です。昭和19年(1944年)3月8日に開始され、日本軍は中部ビルマで攻勢に出ました。その呼称は、交通の要所インパールを最初の目標においたところに由来しています。

開戦前、ビルマは南方資源地帯を守る防壁の役割を担うとされ、ビルマより先への攻勢は考慮されていませんでした。しかし、インパール作戦はこれを逸脱するものです。

もともと昭和17年(1942年)5月にチンドウィン河まで進出した段階で、日本軍のビルマ攻略は終了しています。
しかし、牟田口の構想では、インパールを攻略し、そこからディマプールまで進攻、さらにはブラマプトラ河での決戦を志向していたようです*2

なお、作戦目的が判然としておらず、英植民地であったインドへ進行することでインド転覆を企図したのか、単純に中部ビルマ所在の英軍部隊を撃破するつもりだったのかよくわかりません。

インパール作戦決定までの経緯

牟田口の構想に対し、在ビルマの各師団長、大本営陸軍部の主要メンバーの大多数は反対していました。
満足な道路が少なく、密林の生い茂るアラカン山系へと分け入る攻勢作戦は、補給上、多大な困難が予想されたためです。

インパール作戦に対し特に明確に反対したのは、小畑第15軍参謀長、片倉ビルマ方面軍高級参謀、竹田宮大本営参謀の3人でした。
中でも小畑信良少将*3は輜重兵出身の兵站専門家であり、補給上の自信が持てないと直言しますが、その結果、着任して1ヶ月余の昭和18年5月末に更迭されてしまいます。
竹田宮による、大本営真田作戦部長への率直な反対意見もあったものの、南方軍の作戦方面の実力者であった稲田少将が曖昧な態度をとったこと、第15軍の上部組織であるビルマ方面軍司令官(河辺正三*4中将)と更に上の南方軍総司令官(寺内寿一*5大将)が賛成だったことから、結局、南方軍インパール作戦の認可を上申、「ウ」号作戦として大本営から準備命令が発されます。

8月末、メイミョーの第15軍司令部にて、兵団長会同が開かれます。
小畑更迭事件の影響もあって沈黙を守っていた各兵団長でしたが、もっとも気にかけていた補給問題について「敵に糧を求める」という脳天気な説明しか無かったことから、田中第18師団長が「補給問題について責任が持てるか?」と発言します。
これに対し、薄井補給参謀は「とても責任は持てません」と正直に返答、微妙な空気となります。
しかし牟田口司令官が「心配いらない。敵に遭遇したら銃口を空に向けて3発撃つと、敵は降伏する約束になっとる。」などとわけのわからないことを述べたため、よくわからないままに質疑が打ち切られてしまったとか。

なお、補給について第15軍も頭から否定していたわけではなく、南方軍に自動車150個中隊を要求しています。しかし、日本軍にそんな余力はなくわずか26個中隊に留まりました。
人力だけでは最低限の食料、火器、弾薬も運べないため、代わりに牛、馬、羊などの動物を利用することが考案されます。
これらの動物が全ビルマから徴発されますが、大した役には立ちませんでした。ビルマ牛は動きがのろいうえに坂道に弱いため、結局進撃1週間で牛の連行はあきらめることとなります。
羊にいたっては1日の歩行距離が3キロ程度にすぎず、早々に兵士の食料となりました。

ちなみに牟田口は、第15軍司令官に昇進する前、第18師団長だった当時は、アラカン山系の突破は不可能と判断していました。
心変わりの理由としては、軍司令官となってから三個師団の兵力でのビルマ防衛は困難と感じて、それよりは攻勢に出るべきだと考えたとか、二一号作戦の準備調査で、当初の予想ほどインド・ビルマ国境付近での大軍の作戦が困難ではないと判断したためだとか言われています。

12月末、兵棋演習の終了後、南方軍は作戦発動の認可を大本営に求めました。これに対し、翌19年1月7日付の大陸指第1776号をもって作戦発起が指示されることとなります。
大本営の真田作戦部長は最後まで渋っていましたが、杉山参謀総長から「寺内南方軍総司令官のはじめての要望であり、たっての希望である」から「なんとかやらせてくれ」と言われて引き下がります。

こうして、インパール四部作の著者、高木俊朗氏が「日本陸軍史を通じての最大の愚戦悪闘」と評したインパール作戦が実施されることとなります。

インパール作戦の推移

インパール作戦昭和19年(1944年)3月8日に開始されました。三個師団と戦車・砲兵各一個連隊の攻撃部隊が、三方向からインパールとその背後のコヒマを目指して進撃します。

4月6日には、第31師団がインパール北部のコヒマを占領、インドのディマプールからインパールへと至る交通路遮断に成功します。しかし、コヒマを守備するアッサム連隊の撃滅には失敗、日本軍とアッサム連隊は対峙することとなりディマプールへの突進は出来ずに終わりました。

4月中旬には第15、第33の二個師団がインパールを望見できる位置まで進出して、インド第4軍団の守るインパールを事実上包囲します。
しかし、包囲された英印軍は空中補給によって持ちこたえます。ビルマ方面の連合軍と日本軍の航空兵力比は既に25:1に達しており、日本側は航空優勢を喪失していたのです。
逆に包囲を行う日本軍の方が補給物資の欠乏に悩まされることとなりました。

ちなみに、インパール作戦開始直前、英印軍側は第二次チンディット作戦を開始、日本軍の背後のインドウ一帯にグライダーで長距離挺進縦隊三個旅団を降下させていました。
これらの旅団の目的は後方撹乱にあり、空中補給により敵背後に居座ります。日本軍はこれに対してなけなしの航空戦力を投入したため、インパール作戦への航空支援はほとんど行えなくなってしまいました。

さらには、4月半ばに英第2師団がディマプールから救援活動を実施、密林内を浸透・迂回して背後に回り込み日本軍に攻撃を行い、4月18日コヒマの解囲に成功します。

5月末、コヒマでは補給の欠乏した第31師団の佐藤師団長が独断で撤退を開始します。これは日本軍始まって以来の師団長の抗命事件でした。
このため、佐藤師団長は解任されましたが、同時期、残る2人の師団長も進撃停滞を理由に解任されます。
師団長が交代しても、特に事態が改善されるわけではなく、この頃には作戦失敗が明白となっていました。

しかし、日本軍はこの期に及んでも作戦中止と後退を決断できず、ずるずると引き伸ばした末、ようやく7月1日になって作戦中止を決定します。
(7月2日付の南方軍命令でインパール作戦の正式中止が指令されました。)
この時、ビルマは雨季に入っており、豪雨の中の撤退は困難を極め、餓死者、斃死者が続出することになりました。
攻撃発起点であるチンドウィン河に帰ることが出来たのは、攻撃参加将兵8万8000のうちの半数以下、戦死者は5万から6万と言われています。

なお、作戦失敗が既に明白となっていた6月5日、河辺、牟田口が第15軍司令部で対面します。河辺日記によると、この時、牟田口は河辺になにか訴えたそうにしていたそうです。河辺は牟田口の心中を察しますが、確かめようとはしなかったとのこと。
それでは、ここで牟田口さんの戦後の述懐をどうぞ。
「もはやインパール作戦は断念すべき時期である、と喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである。」

失敗の原因

補給計画のずさんさ*6により戦力を発揮できなかったこと、そもそも彼我の航空戦力に大きな開きがあり航空優勢を喪失していたことが主な原因として挙げられるでしょう。
その一方、英印軍は「浸透・包囲には長けるが火力が低い」という日本軍の戦術的限界を見切り、守りを固めた*7上で後方撹乱(チンディット作戦)を行い、日本軍を自滅的敗北に追い込むことに成功しています。
また、機動力に乏しい日本軍が包囲網を張るために兵力を分散、固着させてしまったのに対し、英印軍は内線の利を活かして兵力を機動、局所優勢を確保したことも着目すべき点です。

インパール作戦その後

インパール作戦の失敗による影響は甚大でした。ビルマ方面軍麾下の三個軍のうち、一個軍が戦力を喪失したこととなり、これはビルマ防衛の急速な崩壊をもたらします。

その後の人事についても少々。

独断撤退という抗命に問われた佐藤中将は、はじめに軍法会議、ついで精神異常者として処理されかけましたが、結局は予備役編入行政処分で放免されました。
(抗命の割に処分が寛大なのは、責任を追求することで、上部組織にも追求が及ぶことを忌避したためと言われています。)

では、牟田口中将はどうなったでしょうか?
牟田口中将は予備役編入の後に、招集されて陸軍予科士官学校長となります。格下げではありますが、なにやら納得できない感がありますね。

ちなみに、牟田口の上司である河辺方面軍司令官は中部軍司令官に転じた後、大将に進級して航空総軍司令官に栄転します。

最後に

旧日本軍は凄いなあ。

当初からその無謀さが指摘されていたインパール作戦が、「初めての要望」だの「たっての希望」だのという、意味不明な理由で決定され、多大な犠牲者を出したあげくに、ビルマ方面の防衛崩壊の要因になりました。

インパール作戦は、太平洋戦争のなかで最も悲惨な敗北の一つですが、作戦途上における三師団長の解任や師団長の抗命撤退など、かつて見られなかった異常事態を引き起こした作戦でもあります。
ちなみに独断撤退した佐藤師団長は、連隊長時代、張鼓峰事件で砲・航空機の支援がない状態で陣地を死守したという戦歴がありました。そういった人物が独断で撤退を開始するような事態…といえば、どれほど異常だったかお分かりいただけると思います。

なお、作戦実施に至るまでを見ると、その意思決定プロセスが理屈や現実と乖離しまくってますが、これは旧日本軍では日常茶飯事…とまでは言えないですが、そこまで珍しいものではありませんでした。稀によくあるってやつですね(?)。あと、おエライさんは責任をとらなくていい組織でもありまして、こういった組織文化が、大量の犠牲者を出した一因となっているようです。
ま、今の日本の各組織も割と似たようなとこがありますけども。

 

 

*1:「大冒険セントエルモスの奇跡」より。どうでもいいか。

*2:表面上は軍の第一線をチンドウィン河の西岸地域に進める「弐」号作戦として提案。

*3:余談ですが、小畑信良少将は太平洋戦争開戦前の大佐時代、参謀本部第一部にて南方占領地行政の研究班の長を務めてたりします。

*4:まさかず、と読みます。

*5:ひさいち、と読みます。

*6:そもそも補給能力的に無理がありました。というか、太平洋戦争後半の各戦場では、日本軍が満足な補給を受けて戦えた事自体レアケースです。例えば、離島守備隊の多くは手持ち兵器と弾薬を数日で消耗した後、白兵突撃で「玉砕」するのがパターンでした。

*7:航空優勢を確保していた英印軍は、空中補給によって包囲を耐え忍びました。