Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦陣訓】生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ【日本人の捕虜観】

前回記事では、太平洋戦争における日本人捕虜第1号である、酒巻和男少尉について書きました。
酒巻少尉は、小型潜水艇の「甲標的」で真珠湾攻撃作戦に参加しますが作戦途上で人事不省に陥り捕虜となっています。

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当時の日本は既に理由の如何に関わらず捕虜となることは許されない状況となっており、出撃後の酒巻少尉に不名誉な行動などはなかったにも関わらず、捕虜となったことは隠蔽されることとなります。
(海軍部内では捕虜となったことについて噂が流れており、半公然の秘密だったようです。作家の豊田穣氏は、海軍兵学校で酒巻少尉と同期であり、霞ヶ浦海軍航空隊での飛行学生時にその噂を聞いたそうで、その際、仲間の1人が「酒巻の奴、自決してくれないかなあ。クラスの名誉にかかわるからなあ。」と言ったことを著作に残しています。)

生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ 死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ

さて、こういった日本の「捕虜となるな、潔く死ね」的な奇妙な捕虜観については、よく「戦陣訓」の影響が原因に挙げられます。
戦陣訓は、1941年1月8日に当時の陸軍大臣東條英機が示達した陸軍大臣告示です(陸訓第一号)。この中に「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ 死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」という文言が入っていました。
これにより、日本軍兵士は捕虜となることを拒み自決やバンザイ突撃で死んだ、という見方がありますが、戦陣訓がどれほどの拘束力を持っていたかは議論の余地があります。

例えば、戦陣訓は陸軍大臣告示であり海軍は対象外であること、同じ陸軍部内でも軍人勅諭の方が優先するとして戦陣訓を軽視する人々がいたこと、公布から敗戦までの期間が短く(4年半)浸透の程度が疑問であることが指摘されています。

実際、冒頭で挙げた酒巻少尉は海軍所属であり戦陣訓の対象外ですが、海軍はこれをタブー視し、前述のとおりクラスの恥だから死んで欲しいというような無慈悲な言葉も発せられています。

また、日中戦争時においては既に理由を問わず捕虜となることはタブーとされていました。南京事件における「捕虜」虐殺についても、日本兵が捕虜となることを(実質)禁じられていたことが影響したのではないかという指摘もあります。

第一次上海事変 空閑少佐の自決

さらに遡ると、1932年の第一次上海事変*1において、上海に派遣された陸軍第九師団歩兵第七連隊の第二大隊長だった空閑昇(くがのぼる)少佐は怪我で人事不省に陥り捕虜となりましたが、捕虜の身を恥じて自決を考えていたといいます。
当時、すでに捕虜となることを恥とする観念が主流となっていたわけです。しかし、この時点においては不可抗力といえる状況で捕虜となったものに対し、陸軍内で困惑がみられます。陸軍刑法にも、空閑少佐のようなケースを罰するような規定はありません。
空閑少佐はその後日本に帰国しますが、軍法会議でも有罪にするような事実は出ず無罪となります。ところが、空閑少佐は部隊の戦闘詳報と部下の功績調査表の作成後、3月28日に拳銃で自殺しました。
この空閑少佐の自決は後に「美談」に仕立てられ、以降、理由の如何に関わらず捕虜をタブーとする観念が決定的に定着することとなります。

余談ですがこの空閑少佐の自決の前には、陸軍士官学校の同期生(22期)たちが空閑少佐に盛んに自殺を奨めていたそうです。同期生たちは個別で言ってくるのみならず、同期生会から電報による自決勧告も送っていたとか。東京日日新聞の石橋恒喜記者が、参謀本部庶務課の牟田口廉也中佐*2から、「われわれ同期生会で相談のうえ、きょう空閑君にあてて電報を打った。電文の内容は『潔く自決せよ』というのだ」という言葉を聞いています。

ちなみに、歩兵第七連隊の留守本部がある金沢の街には早くから空閑少佐が捕虜になったという噂が流れており、身重の夫人が守る留守宅に怒鳴りこんだり、石を投げ込んだりする市民もいたそうです。空閑少佐は実直、親切な人柄で地元にもよく馴染んでいたといいますが、それでも捕虜になっただけで家族が迫害を受けたわけですね。

最後に

上記に述べたとおり、日本人の捕虜観は戦陣訓を境に変わったものではありません。
日露戦争の頃より捕虜となったものを蔑視するケースが散見されるようになっていたようですが、徐々に一般的な価値観として浸透、第一次上海事変の「美談」でもって捕虜観が決定的なものとなったようです。戦陣訓は後からこのような捕虜観を肯定したものだと言えます。
美談が広げた国民的捕虜観は、捕虜となることを否定し、戦地の人々を追い詰め、さらには捕虜となったものへの国民からの迫害を引き起こしかねないものでした。

余談ですが、米軍による日本兵捕虜への尋問記録には、「祖国に帰ったら全員殺される、父母さえも自分を受け入れないだろう」という言葉が残っています。中には「生まれ故郷でなければ、帰国して普通の生活ができる」という兵士もいて、自分を知るものがいないところなら普通に生活できると考えていたようです。ここでも戦陣訓による「恥」のイデオロギーよりも、国民に浸透した捕虜観の影響がみられます。

このような捕虜観念のもとで、多くの日本人が死に追いやられたわけですが、国民が形成した捕虜観念が後に国民への不利益として立ちはだかることとなったわけで、なんとも皮肉なものです。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

決定版 - 日本人捕虜(上) - 白村江からシベリア抑留まで

 

 

*1:1932年1月、排日運動が高まっていた上海で日本海軍の陸戦隊と中国軍(十九路軍)が衝突した事件。3月3日に白川上海派遣軍司令官が停戦声明を発し、5月5日には停戦協定が調印されました。正味36日の戦闘で日本側が約3000人、中国側の兵士約1万2000人が死傷、さらにほぼ同数の民間人が死亡しています。ちなみに第一次上海事変は、陸軍の田中隆吉少佐(当時は上海駐在武官)の謀略に端を発しています。

*2:インパール作戦で悪名高い、あの牟田口さんです。ちなみに彼は戦後も自決などすることなく、東京都調布市で余生を過ごしています。1966年に死去しますが、晩年はインパール作戦についての自己正当化に熱心でした。