Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本陸軍の生活】ぐんたいぐらし! 2巻目【兵たちの食事事情】

えー、まずは前回同様に記事タイトルについて謝罪いたします。ごめんなさい。他意はありません。

ところでゾンビサバイバルものといえば、水や食糧の調達が一つのテーマとなりますが、これは軍隊においても重要なテーマとなります。戦地における兵站はもちろんのこと、平時においても膨大な人員が必要とする糧食や飲料水・生活用水の確保はおろそかにできない問題でした。

ちなみに、日本陸軍では戦地における食糧調達の考え方にかなり雑な点があり、日清・日露戦争の頃から「糧は敵にとれ」が合言葉でした。敵地を占領すれば、敵が残置した補給物資や、現地調達により食糧を入手できると考えていたわけです。
(なお、「現地調達」というと聞こえがいいですが、これは要するに現地住民からの徴発を意味し、実質上はほぼ略奪となります。)
この補給に対する無頓着さは、後にポートモレスビー攻略作戦やインパール作戦などで多くの餓死者を出すこととなりました。
ちなみに、インパール作戦での兵団長会同における補給問題に関する説明は「敵に糧を求める」という能天気なものだったりします。

さておき、本日の記事は日本軍の補給・兵站といったマクロな話は置いといて、もっと末端寄りのお話、兵隊たちの食事事情について思いつくまま書いていきます。

平時における食事事情

さて、以前の記事でも書いたとおり、平時の兵隊たちは「内務班」という中隊をいくつかのグループに分けた単位で集団生活を送っていました。

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内務班の人数は十数名からそれ以上で、あまり一定していないのですが、大体16名〜20数名くらいと思っとけばよいかと思います。
(太平洋戦争末期では40名を上回る大所帯となるケースもみられましたが。)

兵営生活における食事は朝昼夕の三回とされ、炊事場で作られた後に各内務班へ受け渡されました。
食事の受領は「飯上げ」と呼ばれ、各内務班より使役兵が炊事場へ出向き、配食容器にいれられた食事を受け取ります。
内務班に運び込まれた食事は、その場で「公平」に分配され、班員がそろって食事を取ることとされていました。
食事後は洗濯場で各個の食器を洗浄し、炊事場には配食容器を返納します。
なお、食事には細かい注意規定があり、内務班長(下士官)が「食卓長」となり各自の食事の様子を監視することとなっていました。

気になる食事の献立ですが、これは栄養面と原価、兵員の嗜好と季節による出回品を考慮して立案されます。
メニューには意外なことに揚げ物が多く、これはカロリー摂取量の確保から脂肪分の増加が重視されたためです。
なお、汁物はあまり提供されなかったそうです。これは、同量の肉・野菜を煮付けとした時と比較すると、汁物では実質的な摂取量が少なくなるためでした。
主食である米は一日六合となっており、当時としてはかなりの分量です。「腹いっぱい食べられる」ことは、少年志願兵に対する訴求力ともなっていました。

上記に見られる通り、日本陸軍の食事は摂取量が重視されており、これは兵士の体力向上を目的としたものです。
日本人の一日の平均摂取カロリーが2800キロカロリーだった時代に、陸軍では3000キロカロリー以上の摂取が規定されていました。

しかし、日中戦争ついで太平洋戦争の開戦に伴い、軍隊においても食糧事情は悪化していきます。
食糧不足による米麦の節約を目的に、代用食が用いられるようになりました。代用食としてはパンやうどんが挙げられますが、これらは米に比べてカロリーが少なく、規定のカロリー摂取量を満たせることは少なくなっていきます。
後には汁物が増え、さらに揚げ物は少なくなるなど、食糧事情は右肩下がりで悪化しました。

「公平」な分配

さて、前節にて食事は「公平」に分配される、と書きましたが、実質的には公平な分配となりませんでした。
陸軍の各部隊では、養豚業者などに残飯を払い下げ、その代価を兵たちの食費に充当するという行為がよく行われていましたが、この残飯を手づかみで食っていた初年兵が業者に発見されたなんてエピソードが残っています。

食糧は不足しているはずなのになぜ残飯が出るのか、残飯が出るのになぜ初年兵が飢えているのか?といった疑問が湧くと思いますが、この原因の一つは、兵士間で体格差があるのにその点を考慮せず分配していることです。このため、体格の大きいものは飢え、体格の小さなものは食事を残すという不合理が生じました。
他に原因として挙げられるのは「先輩」への遠慮です。内務班では、入営1年目の「初年兵」、入営2年目の「二年兵(古年兵)」が混在して編成されましたが、初年兵と二年兵の「身分差」は絶対的なものでした。食事の分配時、初年兵らが下士官や古年兵には多めに盛り付ける傾向があり、そのため初年兵は飢え、古年兵らは食事を残す、という不合理が生じていたようです。

戦地における食事事情

さて、ついでというとなんですが、戦地における兵たちの食事事情についても少々。

先にも少し触れましたが、日本陸軍の戦地における食糧調達の考え方は割と雑な部分がありました。これは、日本軍のあまり高いとは言えない兵站能力のせいでもあります。
日中戦争において、1940年にはすでに食糧や生活必需品の供給が悪化しており、「現地自活」方針が打ち出されています。「現地自活」といえば聞こえはよいのですが、これはすでに常態化していた中国民衆からの略奪が一層激しくなることを意味していました。
(ちなみに1939年3月に野戦経理長官部より出された「支那事変の経験に基く経理勤務の参考」では、略奪の手引的な内容が掲載されてたりします。隠した食糧の見つけ方とか。)
こういった必要物資の供給が滞るということは、つまるところ、日中戦争は日本の国力に分不相応なものだったといえるでしょう。

さて、中国戦線では略奪により糊口をしのいでいた兵隊たち(略奪される方としてはたまったもんじゃありませんが)ですが、略奪相手がいない戦線ではそうもいきません。
日本軍は太平洋戦争において、ガダルカナルニューギニアインパールなど多くの戦線で大量の餓死者を出すこととなります。
日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者は約230万人に上りますが、藤原彰氏は、このうち栄養失調による餓死者と栄養失調での体力低下に起因する病死者が140万人、実に戦没者中の61%を占めると推定しています。
秦郁彦氏はこれを過大であると批判しているものの、それでも37%という推定餓死率を提示しており、異常な高率であることを認めています。

せっかくなので、戦地での兵士の食事献立例を少し挙げてみましょう。

まずは、良好な補給状況におけるメニュー。
1928年に中国山東省で起こった「済南事件*1」での歩兵第五十連隊の例。
軍曹以下14名の炊事班が連隊の後方に控えて炊飯し、朝食は握り飯、昼食は飯盒に入れ、夕食は握り飯を突撃や銃撃戦の合間に補給していました。
おかずは奈良漬、梅干し、牛肉、缶詰、生魚、氷砂糖などだそうです。
また、乾パンや食パン、サイダー、ビール、果実の缶詰、卵、キャラメルなどを第一線に通ずる道路に積み上げ、特に乾パン、食パン、卵は戦闘参加者の欲するだけ持たせたといいます。
日本軍といえども局地戦、短期戦では十分な給養を実現できていたようです。

さて、次は悪い例。
1945年5月25日の太平洋ミクロネシア地域のパラオの兵士たちに与えられた食事メニューです。
朝は乾パン76.6グラム。
昼は精米78.3グラム、乾パン31.8グラム、味噌汁(かぼちゃ72グラム、魚72グラム)、謎の植物「甘根*2」51グラム。
夕は精米71グラム、さつまいも110グラム。

悪い例での合計カロリーは1103キロカロリーであり、兵士1人に必要とされるカロリーの3分の1程度しか摂取できていなかったことになります。

最後に

さて、兵士たちの食事事情について書いてきましたが、平時、戦地で差はあれど、開戦後は時間の経過にともない食糧事情が悪化していった点は共通しています。
特に、太平洋戦争末期の南方の孤島では餓死が相次いだのですが、極限の状況下におかれた兵士たちのあいだでは軍紀が荒廃し、日本軍兵士らが同じ日本軍兵士から食糧を略奪したり、果ては人肉食のための殺害までみられるようになったとか。
一例を挙げると、フィリピンのルソン島では陸軍大尉に率いられたグループが、日本兵を殺害して食糧を略奪したり、日本兵を殺害して食糧にしたりしてたことが記録されています。ちなみに、このグループに対する「討伐隊」が組織され、首魁の陸軍大尉を捕らえることに成功、大尉は人肉を常食していたことを認めたそうで、討伐隊によりその場で射殺されたそうです。ホント戦争は地獄だぜ!

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

写真で見る日本陸軍兵営の生活

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実

皇軍兵士の日常生活

 

 

*1:国内統一を目指す中国国民革命軍と居留民保護のために出兵した日本軍の間で起こった戦闘

*2:イネ科のチグサの地下茎?真相不明です。