Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【旧日本軍の空挺部隊】空の神兵【挺進部隊/特別陸戦隊】

藍より青き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く

唐突に謎のポエムから始まりましたが、別段頭がおかしくなったのではなく、上記は大日本帝国陸海軍の空挺部隊というか落下傘(パラシュート)部隊のことを歌った軍歌「空の神兵」の一節です。
(ちなみに作詞者は梅木三郎、作曲者は高木東六です。)
日本では、軍の落下傘部隊/落下傘兵に対し「空の神兵」というアダ名をつけていたのですが、他国ではソ連が「バッタの戦士」、イギリスが「赤い悪魔」、ドイツが「緑の悪魔」といった具合だったので、これらと対比すると日本の「夢見るアリスチャン」っぷりプロパガンダ臭が際立つ感じです。「神の国」だの「神風」だの「神」大好きですよね、日本。
ちなみに海軍の神重徳(かみ しげのり)少将*1は海軍内で「神さん神がかり」と陰口を叩かれていたそうですが、「海軍の辻政信」とも言われていたそうで、むしろそっちの方が侮辱的なのは確定的に明らか。

どうでもいい話はさておき、前回前々回と軍隊のパラシュート降下について書いてきましたが、今回はその関連で太平洋戦争当時の日本軍の空挺部隊について取り上げてみたいと思います。

空挺作戦事始め

「空の神兵」こと日本軍空挺部隊に取り上げる前に、一応、パラシュート誕生から空挺作戦までの流れを概観してみましょう。

はじめてのパラシュート

パラシュートの原型とみられるものは、1100年代の中国の文献や、レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年に描いたとされる図に残されていますが、世界で最初に飛行中の乗り物からパラシュートで飛び降りてみせたのはJ.P.バランチャードだとされています。1785年、熱気球からのパラシュート降下でした。
飛行機からの初パラシュート降下はアメリカのG.モートンで、1911年にカリフォルニアにてパラシュート降下した記録が残っています。

はじめてのぐんじりよう

前回記事でも触れましたが、パラシュートが軍用として利用され始めたのは第一次大戦で、観測気球からの脱出に用いられました。
第一次大戦末期には、在欧米陸軍航空部隊司令のウィリアム・ミッチェル大佐によって、パラシュートを用いて敵後方に降下し奇襲や撹乱を行う空挺戦術が考案されますが、実行にはいたりませんでした。
実戦での空挺作戦は、第一次大戦後、ソ連軍により行われることとなります。

はじめてのエアボーン

1930年代にソ連フィンランドとの戦争で空挺部隊を投入、初の空挺作戦を実施します。その後、1940年には、ドイツ軍による大規模な空挺作戦が行われ大きな成果を挙げました。
これらの影響もあって、各国は空挺部隊の創設と運用研究に本格的に取り組むこととなるわけですが、その例にもれず、米英との開戦を視野に入れていた日本も1940年後半より空挺部隊創設に向けてリサーチを本格化します。

空の神兵への道

日本では、陸軍と海軍がそれぞれ別個に空挺部隊を編成しました。
以下、それぞれの部隊創設から太平洋戦争における活躍、その終焉までをざっと追っていきます。

陸軍の場合

陸軍では井戸田勇(いとだ いさむ)中佐を主務者として部隊の編成や要員教育の計画に着手します。1940年10月には、第一次要員約200名が全軍から選抜され、12月には浜松陸軍飛行学校練習部を創設、パラシュート降下や空挺部隊に関する実験・検証を開始しました。
一口に実験・検証といいましたが、これは開戦が迫る時局下で、航空機の改造やパラシュート開発、降下技法の確立など多岐にわたる事項をこなさなければならない困難なものでした。
なお、日本陸軍では、パラシュート降下兵のことを「挺進歩兵」と呼称しています。

約1年後の1941年12月1日、困難の末に空挺部隊は実用化の域に達し、陸軍初の空挺部隊である第一挺進団(団長:久米精一大佐)が編成されます。
同団は第1/第2挺進連隊を主力としましたが挺進連隊は規模が小さく、1個連隊は4個中隊編成の総員約700名で一般歩兵の大隊相当でした。
(ただし、空挺部隊の規模が小さいのはアメリカなど各国も同様です。)

初期の挺進歩兵は、士官から兵まで全員が拳銃と手榴弾のみを携行して降下し、短機関銃や騎銃、軽機関銃などの小火器は物料箱と呼ばれるコンテナにおさめて別途、投下していました。
このため、例えば南スマトラ島パレンバン攻略作戦では兵器の収容に手間取り、物料箱回収までの間、拳銃や手榴弾のみで戦闘せざるを得ず、損害率が26パーセントに達しています。
この経験から、空挺部隊用に折りたたみ式銃床を持つ百式短機関銃や、2分割できる「テラ」銃が開発され、パラシュートの改良と併せて後にはこれらの小火器を身につけて降下できるようになりました。

なお、挺進部隊の空輸には、当初九七式輸送機が、パレンバン攻略戦においては一式輸送機が、それ以降は百式輸送機が用いられています。一式は挺進隊員10名を、百式は13名を輸送可能でした。ただし、陸軍には兵器降下用の輸送機はなく、物料投下には終戦まで九七式重爆撃機が流用されています。

ちなみに、冒頭で述べた落下傘部隊/落下傘兵の愛称「空の神兵」ですが、これはパレンバン攻略戦の挺進部隊の活躍からきたものです。
パレンバン攻略戦では苦戦したものの、精油所をほぼ無傷で占領するなどの戦果を挙げています。

その後、陸軍挺進部隊は編成・装備を拡充され、1944年、第一挺進団が第一挺進集団に格上げ、挺進4個連隊と滑空(グライダー)歩兵2個連隊を擁する大部隊となりました。
しかし、航空優勢を失ったため本来の空挺作戦は実施困難となり、1944年以降はフィリピン決戦に少数が空挺降下をおこなったものの、その大部は地上から戦闘に投入されています。
1945年5月には、挺進部隊からの選抜将兵で編成された義烈空挺隊が、沖縄戦にてアメリカ軍飛行場に九七式重爆に乗ったまま強行着陸し、航空機や航空施設を破壊する「義号」作戦を実施しました。米側の記録によれば、1機のみ読谷飛行場への強行着陸に成功し航空機の破壊活動を行っています。

海軍の場合

海軍は、軍艦の乗組員によって随時編成される陸戦隊の他、各鎮守府ごとに常設の陸戦隊を保有していました。
(陸戦隊は、海軍隷下にあって陸上戦闘を行う部隊です。このような部隊を、海兵隊と呼ぶ国もあります。)
海軍では、この陸戦隊のいくつかをパラシュート部隊とすることにし、1940年11月に研究に着手、翌1941年9月には空挺部隊である横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(司令:堀内豊秋中佐)を編成します。ちなみに同年11月には第一特別陸戦隊より抽出された基幹要員により横須賀鎮守府第三特別陸戦隊も編成されました。
特別陸戦隊は約750名の人員を擁し、陸軍挺身隊と同様に当初は拳銃と手榴弾のみ携行して降下、後に小火器を携行して降下できるようになった点も陸軍と共通しています。

空輸については九六式陸上攻撃機を改造した九六式陸上輸送機が用いられ、人員12名と食糧2梱包を機内に収容・投下できました。兵器5梱包を投下懸吊架に吊るすことができ、兵器、人員の順に同一機から投下しています。

1942年1月11日、横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(略称は横1特)は、蘭印のセレベス攻略戦に投入されました。
飛行場占拠のためメナドに降下しますが、これが日本軍における空挺部隊の実戦初降下となります。飛行場の占領には成功したものの、飛行場直上に降下してしまったために予想を超える死傷者(64名、損害率20パーセント)を出すこととなりました。
ちなみに、2月20日には横3特が飛行場確保のためチモール島バパウに降下しています。

その後、航空優勢の喪失により、陸軍挺身隊と同様に特別陸戦隊は空挺作戦の機会に恵まれなくなりました。
特別陸戦隊は精鋭として温存され、サイパン島に前進配備のうえ予備兵力となっていましたが、1944年6月、米軍のサイパン島攻略に際して勇戦したものの全滅しています。

最後に

ついでの余談。
帝国陸軍における挺進部隊の運用構想は「空中挺進部隊ノ運用ニ関スル要綱(1941年)」によると、降下地域は密林地帯、攻撃目標は飛行場・橋梁・大工場など、目標地域には自部隊よりも優勢な敵がいるという想定でした。
標準的な作戦様相としては、1個連隊程度で出撃、攻撃目標から2〜3キロほど離れた場所に降下した後に攻撃、出撃基地と降下地域間の距離は600キロ以内とされ、弾薬は食糧は3日分を携行するというものです。初っ端から南方作戦を想定した風情だったわけですね。

 

 

*1:大和特攻作戦の計画で有名です。ちなみに少将は最終階級です。