Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本軍】風船爆弾 顛末記【珍兵器?秘密兵器?】

残念ながら有史以来、世界のどこかで戦争が起こっている人類ですが、幸い、今の日本は一応平和な状態です。稀有なことに70年以上も平和が続いています。

平和はとても良いことなのですが、しかし、あまり戦争のことを忘れてしまうと、人々のもつ戦争のイメージが「ファンタジー化」してしまうことがあります。
第一次世界大戦前夜のヨーロッパはまさにそのような状態にあり、戦争への危機感が薄弱になっていました。
19世紀初めのナポレオン戦争以後、ヨーロッパ中心部では大規模な長期戦を経験していません*1。そのため過去の戦争の記憶は薄れ、戦争にロマンチックなイメージを抱く人々が少なくありませんでした*2

戦争イメージがファンタジー化した人ほど、国家の暴力装置たる軍隊を軽々しく使おうとする傾向がありますが、皮肉なことにそういう人に限って「平和を守るための軍事力行使」とかの理屈を振りかざしてくることが多かったり。
(私見ですが、その手の人はトータルで考えるべき安全保障を、軍事力だけの問題として単純に捉えてる人が多いように思います*3。)

そんなわけで最近は「ファンタジー化」の自戒を込めて、太平洋戦争についての記事をちょこちょこ書いてたりします*4
ただ、今回の記事についてはそういう動機からは少し外れます。旧日本軍の秘密兵器、風船爆弾について。
(ちょっとふざけた感じに見えるかもしれませんが、割と真面目な記事です。)

 奇想天外 風船爆弾(気球爆弾)

風船爆弾は、読んで字のごとく、風船(というか気球)に爆弾をぶら下げた兵器です。
直径10メートルほどの気球に、焼夷弾(5kg焼夷弾または12kg焼夷弾)や対人殺傷用の炸裂弾(15kg爆弾)を懸吊し、米本土を直接爆撃することを目的としていました。
(陸軍製のA型、海軍製のB型があり、若干A型の方が大きかったようです)
誘導装置などはなく、冬季の日本上空で吹く強い偏西風(ジェット気流)に乗って、アメリカへ流れていきます。

f:id:lmacs510:20170717001418j:plain

気球の部分は主に和紙とコンニャク(糊として使用)から成り、製造にあたっては和紙調達のため全国の和紙手すき業者に増産命令が出されていました。また、接着剤としてコンニャクを使用するため、市場から食用のコンニャクが姿を消したとか。

気球の最終組み立てには広い床のある建物が必要とされたため、東京の日劇東宝劇場、国技館などを使用しました。また、組立作業には女子挺身隊が動員されています。

風船爆弾は「ふ号兵器」と名付けられ、悪化する一方の戦局のなか、米本土に対する唯一の反撃手段として計画されます。
計画では15,000個の風船を用意し、1944年秋に米本土へ向けて放流することとなっていました。
実際には1944年11月より放流を開始し、最終的には約9,300個の風船爆弾をアメリカへ向けて放射します。その戦果は後ほど…。

技術面

風船爆弾は「気球に爆弾をぶら下げただけ」の兵器ではありません。
ジェット気流に乗せて米本土へ到達させるため、いくつかの工夫がなされていました。

まず、対流圏界面(対流圏と成層圏の境界領域)で吹くジェット気流を利用するため、一定の高度を維持する必要があります。
そのため、陸軍第九技術研究所の大槻技術少佐によりアネロイド気圧計を利用した高度保持装置が組み込まれました。
これは、32個の砂袋(バラスト)を積み込み、高度が3万フィート(約9,000m)に低下すると2袋1セットの砂袋を投棄し軽量化、再度巡航高度(3.8万フィート)まで上昇させるというものでした。
また、気球外皮についても低い気圧と超低温に耐える必要があるため、和紙を三−五層に貼りあわせた強化和紙が考案されています。

ちなみに、気象台の荒川秀俊博士らの研究によって、風船爆弾が太平洋を横断する時間は30から100時間、平均60時間と推定されていました。

資材面

風船爆弾は、割と本格的な体制のもとで計画が進められています。
先程も登場した陸軍第九技術研究所の草場季喜少将を主任として九つの陸軍技術研究所全部が協力する体制が作られ、さらにはそれまで別個の計画を進めていた海軍も合流します。
風船爆弾15,000個の作成については、必要な施設、資材、労働力が最優先的に投入されることとなりました。
参謀本部の試算によると、所要資材は鋼材1,500トン、アルミニウム300トン、水素ボンベ30,000本、食塩6,000トンが見込まれたとのこと。鋼材だけで見ると小型駆逐艦1隻分にすぎず、参謀本部の真田作戦部長は「紙とコンニャクの塊で800トン分の爆弾を米本土に運べれば安いものだ」と評価したとか。

ふ号作戦開始

さて、1944年10月25日、大本営の大陸指二二五三号により作戦発動が命じられます。
これを受けて、11月3日午前5時より風船爆弾の放流が開始されます。
(本来は11月1日の開始を予定していたのですが、気象条件の関係で遅れました。)

ちなみに放流地点は福島県勿来(なこそ)、茨城県大津、千葉県一宮の3箇所で、気球連隊*5よりそれぞれ1個大隊が配置されました。

アメリカ側の対応

放流した風船爆弾が米軍によって最初に発見されたのは1944年11月4日の夕方です。南部カリフォルニア州の沿岸を航行していた米海軍の小型哨戒艇が、巨大な風船の破片を発見。船上に引き上げ、付属の小型無線発信機に日本製を示すマークが付いていることを確認したものの、どのような目的で作成されたのかは分かりませんでした。
その10日後、オアフ島のカイルア沖で同様の風船が回収されたことから、どうも軍事目的によるものらしい、と推定します。
12月6日には、ワイオミング州サーモポリスの山中に落下し爆発、現場に15キロ爆弾の爆発で生じた弾痕が確認されたことから、風船爆弾の目的が判明します。

これに対し、連邦、州政府、防空部隊のあいだで監視網を組織することとなりますが、心理的パニックをおそれて一般市民へは公表されず、報道管制が敷かれました。
(森林レンジャー等の一部民間人を除く。)

米側は、焼夷弾による西部山岳地帯の山火事発生を特に警戒していたようです。
ファイアフライ計画」の名で森林消防隊を編成、対策することとなります。
また、防空部隊の戦闘機による風船撃墜体制を整備し、翌年8月の戦争終結までにのべ500機近い戦闘機が出動していますが、多くは徒労に終わった模様です。米本土上空で確認された戦果はわずかに2個だったとか。
ただし、迎撃線をアリューシャン列島に前進させ、米本土到着前に撃墜する作戦も取られており、そちらではそれなりの成果が挙がったようです。

風船爆弾の戦果

この辺で、風船爆弾の戦果について見てみましょう。

風船爆弾の研究者であるロバート・C・ミケシュ氏によると、米本土およびその周辺で確認された風船爆弾は285個、そのうち120個は回収され、20個が撃墜されています。
爆発の記録は28件、風船爆弾と疑わしい爆発等が85件とのこと。

戦果としては、二つの小規模な山火事があった他、ワシントン州ハンフォード工場付近の配電線を切断し停電を引き起こしています。
戦果がこれだけなら笑い話になりかねないのですが、痛ましいことに民間人に人的被害が出ています。
1945年5月5日、オレゴン州にて、5人の小学生をつれてピクニックに来ていたミッチェル牧師夫妻の一行が風船爆弾に遭遇、爆発により夫人と5人の子どもたちが命を落としました。
爆発現場には後にミッチェル記念公園が作られ、慰霊碑が建立されています。

ふ号作戦の終焉

日本側の期待に反して、ほとんど戦果を挙げることはできなかった風船爆弾ですが、一応、米軍側に迎撃や消防体制構築などのコストを強いることが出来たと言えなくもないかもしれません。しかし、それが日本側のコストに釣り合うものかどうかとなると…。

なお、前述した通り米側が報道管制を敷いたことから、日本側は戦果をほとんど確認できませんでした。
(1944年年末に中国の新聞が米西部で怪しい山火事が生じたことを伝えており、大本営はこれを風船爆弾によるものと判断しています。これが日本が唯一確認できた風船爆弾の「戦果」でした。)
本土決戦の切迫もあったことから、これ以上あてのない「ふ号作戦」を続けることは出来ず、1945年4月中旬で放流は打ち切られます。

ちなみに、風船爆弾では、爆弾の代わりに細菌(炭疽菌やペスト等)や少数の兵士を乗せることも検討されていたようです。
陸軍省も、細菌や化学物質、破壊工作員を送り込んでくることを懸念していました。特に細菌や化学物質が積載されていた場合の対応として、着地した風船爆弾の調査に当たって防毒マスク・防護服を着用したり、新種の植物病をチェックする対策なども準備していたそうです。

最後に

兵器開発において、一見、奇妙と思えるものが検討されることはさほど珍しくありません。
風船爆弾は1935年には陸軍で研究されていましたが、同時期には他に無人戦車、電気砲、殺人光線なども検討されていました。

とはいえ、日本では桜花*6、回天*7震洋*8、伏龍*9などの「決戦兵器」群があります。
これらに比べたら、上記の珍兵器など、大したインパクトとは言えないのではないでしょうか。

戦争は、それが起こった時点で政治/外交上の失策であると言えますが、特に太平洋戦争における日本の失策は極めて大きなものでした。
その失策により日本国民に多くの犠牲者が出ていますが、その上で、さらに上記のような「決戦兵器」を計画するのですから、なんとも空恐ろしいものを感じます。
戦後70年が経過した今、改めて「大日本帝国が日本国民になにをしてきたか」を見直すべきなのかもしれません。

 

 

*1:短期の戦争はありました。

*2:もちろん行き着いた先は地獄でした。端的なものとして戦死者数を挙げてみると、同盟国側の戦死者数が約481万人、連合国側の戦死者数が約528万9千人。「死傷者数」ではありません。「戦死者数」です。

*3:ついでに言うと、強硬路線一辺倒なことが多いです。

*4:一応そういう動機が1割くらい。残り9割は趣味

*5:1944年9月8日新設。連隊長は井上茂大佐

*6:言わずと知れたロケット特攻機

*7:人間魚雷

*8:特攻用モーターボート

*9:人間機雷。潜水具を着用して、棒付き機雷で敵の舟艇を爆破する特攻戦術。実戦投入されずに終わったものの、事故が頻発した。