Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【零戦、信濃】太平洋戦争にまつわる数字その2【小学6年生、腰巾着】

以前、ちょっとしたネタとして、太平洋戦争にまつわる数字についての記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

今回はその続編です。小ネタなのでさくさくいきましょう。

1万430機

零戦、正式名称「零式艦上戦闘機」の生産機数です。日本軍機としては最多の生産数でした。
(ただし、1万430機中、327機はフロート(浮舟)をつけた二式水上戦闘機です。)

ちなみに、零戦に次いで多く生産されたのは陸軍機の一式戦闘機「隼」であり、その数は5751機、その次がやはり陸軍機の四式戦闘機「疾風(はやて)」で3470機となっております。
他の海軍戦闘機は「雷電」500機弱、「紫電」1000余機、「紫電改」400余機と、零戦に大きく水をあけられています。
なお、零戦だけやたらと多く生産されたのは、零戦の後継機がなかなか完成しなかったことも一因だったりします。
海軍の戦闘機は3年を基準として新規に設計・試作されるのが慣例となっていましたが、エンジン選定ですったもんだがあったりとかいろんな事情が重なり、後継機「烈風」が制式採用となったのは1945年6月でした。
(ちなみに、「烈風」は終戦時までに試作機8機が生産されたにとどまっています。)

ついでに海外に目を向けてみると、イギリスの「スピットファイア」が約2万3000機、ドイツのBf109が約3万3000機です。
なお、アメリカはF4F「ワイルドキャット」が7722機、F6F「ヘルキャット」が1万2275機、P-38「ライトニング」が9942機、P-47「サンダーボルト」1万5660機、P-51「ムスタング」が1万6766機…とキリがないのでこの辺にしときますが、ここでも国力差を感じますね。

さらについでの余談。零戦を「ゼロせん」と呼ぶのは間違いで「れいせん」と呼ぶべき…みたいな話がまことしやかに語られることがあります。
上記については、「ゼロ戦という呼び方は戦後に米軍の"ゼロファイター"と混ざって定着したせいで、戦後の呼び方である」…とかなんとか理由付けされてますが、実際には戦中から割と「ゼロせん」呼ばわりされてた模様。

昭和18年(1943年)以降くらいから海軍内でも「ゼロせん」という呼び方が一般的となっていたようで、昭和19年(1944年)11月23日の朝日新聞には「荒鷲等からは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」という記事が載ったりしてます。
ちなみに別の海軍機の話ですが、零式観測機も「ゼロ観」と呼ばれてました。

10日後

超大型空母、信濃にまつわる数字です。

信濃は、大和型戦艦の三番艦として起工されたものの、太平洋戦争勃発による状況変化*1から建造中止となりました。
しかし、1942年6月のミッドウェー海戦における空母4隻喪失を受け、空母として建造再開することとなります。

もともと大和型戦艦であった信濃は、公試排水量6万8060トンという超巨大空母として1944年11月19日に竣工。11月28日午後6時には呉工廠への回航のため横須賀を出港しました。
29日午前3時過ぎ、浜名湖の南方を航行していた信濃は、突如、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の攻撃を受けます。魚雷4本が右舷後方に命中し、まもなく信濃は浸水にみまわれます。
信濃座礁してでも沈没を避けようと、進路を潮岬*2に向け航行を続けますが、被雷8時間後の午前10時56分、潮岬南方48キロの地点で転覆、沈没しました。犠牲者は艦長以下1435名に達したといいます。

竣工からわずか10日後のことでした。

大和や武蔵と同じ船体を持つ信濃が、なぜわずか4本の魚雷*3で沈没したのか、という点については、乗員の訓練が不十分で応急処置に適切さを欠いていたことや、完成を急ぐあまり気密試験などが省略され不具合を多く抱えていたためだといわれています。

-4.8cm、-2.3kg

小学6年生男子の、昭和12年(1937年)と昭和21年(1946年)の平均身長、平均体重の差です。なお、昭和21年の方が身長が低く体重も軽くなっていました。

昭和12年(1937年) 134.7cm 29.8kg
昭和21年(1946年) 129.9cm 27.5kg

日本では、昭和16年(1941年)から米穀の配給通帳制が開始され、成人男性1日あたり330グラムの米が配給されるようになりました。
(実際には、成人男子330グラムを基準に、性別、年齢、労働の種別によって配給量が異なります(16区分)。)
後には、日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれます。

さらに昭和20年(1945年)7月からは米の配給量が更に削減、成人男性1日当たり300グラムとなります。
これはカロリー換算すると1200キロカロリーにすぎず、成人男性の必要熱量である2000キロカロリーの60%しかありません。乏しい配給制のため不足分を副食で補うことも困難であり、国民の間で栄養失調が蔓延することとなります。

それを踏まえた上で、身長-4.8cm、体重-2.3kgという数値をみると…なんとも悲しいものがあります。

三奸四愚

最後は少し変化球。3「奸」と4「愚」。
この言葉は、昭和18〜19年の頃に、陸軍省内でこっそり流行していたものです。
東條英機の取り巻きを指す言葉で、メンバーは以下といわれています*4

三奸:鈴木貞一企画院総裁、加藤泊治郎憲兵司令官、四方諒二東京憲兵隊長

四愚:木村兵太郎陸軍次官、佐藤賢了軍務局長、真田穣一郎参謀本部作戦部長、赤松貞雄首相秘書官

三奸のうち2人は憲兵ってところが、東條っぽいですね*5

東條英機には独善的で不寛容なところがあり、自分と見解を異にするものを排斥する傾向が強い人物でした。その結果、東條の周りには、東條の足らない面をカバーする人材は集わず、むしろ「ミニ東條コレクション」の様相を呈します。
(いわずもがなですが、これは東條の欠点をさらに増幅します。)

まあ、簡単にいうと東條は好き嫌いが激しい人柄で、しかも自分と違うタイプは大抵嫌いだったわけですね。
ちなみに、東條が嫌いなタイプの代表は頭脳明晰な人物で、石原莞爾との衝突は特に知られていますが、他にも篠塚義雄や前田利為、酒井鎬次らを意思決定中枢から遠ざけたりしてます。

 

 

*1:造船所は、中型戦闘艦の建造や既存艦の改造・修理を優先することとなり、大型艦を建造してる余裕がなくなりました。

*2:しおのみさき。和歌山県

*3:大和、武蔵は10本以上の魚雷を受けながらなお浮いていました。

*4:諸説あり

*5:東京憲兵隊を使った政敵弾圧は東條の常套手段でした。どっかの総理大臣と似てるような…。なお、他にも陸軍人事で気に食わない奴を激戦地に飛ばすとか、民間人で気に食わない奴を懲罰的招集(招集後は激戦地に飛ばす)するとか、東條さんは、まあ、なんというかそういうタイプの人でした。