Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争を知ろう】戦艦「大和」の沖縄特攻【太平洋戦争】

前回の記事にて、インパール作戦について書きました。
日本陸軍史を通じての最大の愚戦悪闘*1」と評されるインパール作戦ですが、程度の差こそあれ、太平洋戦争時の旧日本軍において「愚戦」はさほど珍しくありませんでした。
ちょっと思いつくだけでもガダルカナルポートモレスビー攻略作戦、北ボルネオでの第37軍の西海岸への兵力移動、レイテ島の地上決戦などなど…。

さて本日は、そんな数ある「愚戦」の中から「天一号作戦」における「大和」特攻について。

戦艦「大和」

戦艦「大和」は、言わずと知れた世界最大の戦艦です。
大和型戦艦は、戦艦主砲としては他に例を見ない46センチ砲9門を搭載し、その射程は4万800メートルといわれていました。これにより、敵戦艦の射程外から一方的に攻撃する「アウトレンジ戦法」を念頭に設計されています。

とはいえ、太平洋戦争では海戦の主役が航空母艦と航空機に移り、活躍の機会はありませんでした。
(全くなにもしなかったわけではなく、一応、ミッドウェー海戦マリアナ沖海戦に出撃しています。ただし出撃しただけ…というと言い過ぎですが、まあ、活躍の機会はありませんでした。また、レイテ沖海戦ではレイテ湾への突入を予定していましたが、指揮官判断により引き返しています。)

そんな「大和」に最後の「活躍」の機会が巡ってきたのは、太平洋戦争末期、昭和20年(1945年)4月6日のことでした。
この日、「大和」は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」および駆逐艦8隻と共に豊後水道を出撃、沖縄を目指します。
…米空母機動艦隊の餌食となって撃沈されることを覚悟した「特攻」出撃でした。

「大和」沖縄への出撃の背景

「大和」出撃の背景には、4月1日の沖縄本島への米軍上陸があります。

フィリピンを攻略した米軍は、次いで来たるべき日本本土への進攻拠点とすべく沖縄攻略に乗り出しました。
沖縄戦の前、3月には米軍により硫黄島が攻略されています。硫黄島は最初から玉砕が予定された勝ち目のない戦いであり、全滅までどれだけの時間が稼げるか、その点だけが硫黄島守備隊に期待された役割でした。
太平洋戦争において最後の大規模地上戦となった沖縄戦も、硫黄島と同様に防衛成功の見込みのない戦いです。
沖縄守備軍に求められた役割も、硫黄島と同様、本土決戦のための時間稼ぎでした。

すでに海上戦力の枯渇した日本には、洋上での上陸部隊撃滅は不可能でした。しかも、沖縄戦直前には、沖縄守備の第32軍から第9師団を台湾へ配置換えしており、防衛戦力が減少しています。これは、レイテ島での消耗を台湾から手当し、台湾の第10方面軍の兵備に不足を生じたための措置でしたが、この結果、兵力減少のみならず、第32軍の防衛計画に齟齬をきたすこととなりました。

余談ですが、沖縄では防衛招集と称して現地住民の子供から老人まで招集、ろくな装備も訓練もなく兵士として戦闘に参加させています。

「特攻」出撃に至る経緯

さて、沖縄戦は、第32軍を中心とする日本守備軍と米上陸軍との戦いです。日本ではこれに対する増援などは計画されませんでしたが、九州と台湾の陸海軍航空部隊からは特攻機が出撃し、沖縄周辺に集まっていた米機動部隊への攻撃を行いました(「菊水」作戦。一号〜十号まで実施)。

「大和」の出撃は「菊水」一号作戦に呼応したもので、一応の作戦内容としては、沖縄へ突進した後、浅瀬に乗り上げて砲台となり敵の上陸部隊を砲撃、最後には乗員将兵が島に上陸して陸兵として戦う、というものでした。
しかしこれは、航空部隊による防空援護のない艦隊のみの出撃であり、沖縄までたどり着く見込みは極めて薄かったのです。

旧日本軍には酷い作戦が多くありますが、さすがに成功の見込みがほぼ無いにも関わらず実施される作戦というのは(あまり)多くありません。
前回取り上げたインパール作戦は、その「多くはない」例ですが、「大和」特攻もそれに該当するものです。

客観的にみると意味不明としか言いようのない「大和」特攻作戦を考えたのは、連合艦隊司令部の作戦参謀、神重徳(かみ しげのり)大佐でした。
(ちなみに神は、海軍内で「神さん神がかり」と揶揄されることもあった人物です。)
神は前述した「作戦」を立案し、連合艦隊司令長官豊田副武(とよだ そえむ)大将の承認、次いで軍令部からの了解を取り付けます。
しかし、この時、神の上司にあたる連合艦隊参謀長の草鹿龍之介(くさか りゅうのすけ)中将は「大和」出撃案を知りませんでした。
草鹿は特攻出撃基地となっていた鹿屋に出張中で、その間に神が話を進めてしまっていたのです。
神からの電話で初めてこのことを聞いた草鹿は、この作戦に反対し、電話で激しい議論となったといいます。
この際、神は「(天皇)陛下から航空部隊だけの総攻撃かというご下問があったことだし」と言って押し通そうとしたようです。
天皇からのご下問」というのは、軍令部総長の及川古志郎(おいかわ こしろう)大将が、航空機の特攻計画である「菊水」作戦について説明した折の天皇の発言のことです。
及川の航空部隊総攻撃という説明に対し、天皇は「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか。」と発言。及川はこれを「水上部隊はなにもしないのか」という叱咤ととらえたようで、軍令部に戻ると幕僚たちに自分が感じたままの話を伝えました。神は、この話を自分の都合の良いように使ったわけです。

ともあれ、既に連合艦隊司令長官の豊田の承認を得ていた作戦を覆すことはできず、結局、「大和」出撃は実行されることとなります。
しかも、あろうことか草鹿は賛成していないこの作戦について、「大和」を率いる伊藤整一(いとう せいいち)中将(第二艦隊司令長官)の説得役を押し付けられることになりました。
説得、というのは、4月5日に出された「大和」出撃命令に対し、伊藤が反対していたためです。軍隊において、いったん発動された命令に対して反対するなど通常あり得ないことですが、それほどこの作戦は滅茶苦茶な内容だったわけです。

4月6日、草鹿は、共に出張中であった参謀・三上作夫(みかみ さくお)中佐と、瀬戸内海の「大和」を訪ね、伊藤の説得にあたります。
そもそも無茶な作戦であるため、理詰めの説明も出来ず、説得は難航しました。しかし、「どうか一億総特攻のさきがけになってもらいたい」という苦し紛れともつかない懇願に対し、伊藤は一転、了承します。これが通常の作戦では無く、航空特攻と同様の作戦であると納得したのだといわれています。

その後、草鹿は出撃予定の艦長や参謀を集め、「説明会」を開きます*2が、この際も反対意見が続発しました。
いくつか、反対発言を取り上げてみましょう。

「東郷元帥を見よ。ネルソンを見よ。豊田長官も穴から出てきて、われわれを直接指揮してもらいたい」(第21駆逐隊司令 小澤久雄大佐)
「途中で必ず撃沈される作戦には、同意することができない。国民の財産をこのような方法で浪費することには、絶対反対である。」(駆逐艦「朝霜」艦長 杉原與四郎中佐)
「この作戦で死所は得られない。われわれは敵が本土に上陸したとき、刺し違えて死ぬべきである。」(第7駆逐隊司令 新谷嘉一大佐)

上記の通り反対意見の嵐でしたが、そんななか、伊藤が立ち上がり「諸君、われわれは死に場所を与えられたのだ」と発言すると、ここでも状況が一変、全員が了承します。
当時、「一億玉砕・一億総特攻」なんてスローガンも出ており、既に航空特攻が実施されている状況です。そのような異常な時代において「一億総特攻のさきがけ」などと言われれば、納得せざるを得なかったのかもしれません。

なお、草鹿参謀長は、作家の半藤一利氏が戦後にインタビューした折、「この説得の役目ほどつらいことはなかった」としみじみと語ったそうです。

「大和」特攻の顛末

4月6日午後6時、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「朝霜」「初霜」「霞」「磯風」「雪風」「浜風」計10隻は豊後水道を出撃しました。
駆逐艦「朝霜」は機関不良により後落、消息不明となりました。)
しかし、翌4月7日早朝、薩摩半島の坊岬(ぼうのみさき)沖で米機動部隊の航空機による攻撃を受けます。

約380機の米航空機による攻撃は2時間におよび、「大和」は左舷に大きく傾斜して沈みました。
「矢矧」も航行不能になった末に沈没。「浜風」は魚雷で艦体を切断され、「磯風」と「霞」は味方により処分されます。残る駆逐艦4隻は伊藤の作戦中止命令により帰還できました。
なお、伊藤は「大和」と運命を共にしています。

この戦闘を坊ノ岬沖海戦という人もいますが、「海戦なんて呼べるものではない」という指摘もあったりします。
この指摘は、損害比が戦闘というよりはもはや「虐殺」に近いから、というのが理由です。
日本側戦死者数は3721名(うち「大和」2740名)、対する米軍の戦死者数は14名です。その比率はなんと265:1くらい。
ちなみに、米航空機については損失6機、損傷は52機でした。

最後に

旧日本軍は、(もとよりちょっと怪しい傾向がありましたが)太平洋戦争末期になると、どうにも理屈にあわない「感情的」な動きが増えてきます。
「大和」特攻はその典型ともいうべきもので、その際の訓示も奇妙に感情的というか、現実と乖離した言葉が並んでいました。
以下、その訓示より抜粋。

「ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず」

…だそうです。
では、ここで護衛総司令部参謀の大井篤(おおい あつし)大佐が、上記訓示を聞いてカッとなって発した一言をどうぞ。
「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」

それでは今日はこのへんで。

 

 

*1:インパール四部作の著者、高木俊明氏

*2:これも当時の軍隊としては異例です。