Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【朝鮮戦争】後方支援から前線へ【当時の日本】

今日は、朝鮮戦争について少々。

1950年6月25日未明、北朝鮮による韓国攻撃で朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮軍は、朝鮮半島を南北に二分する38度線全線で砲撃を開始、引き続いて7個歩兵師団、1個戦車旅団が韓国に侵攻し、6月28日にはソウルが陥落することとなります。
その後3年1ヶ月にわたって大量殺戮と破壊をもたらす戦いの始まりでした。

朝鮮戦争では、韓国軍のみならず、米軍を中心に国連軍16ヶ国が参戦、また開戦4ヶ月後には北朝鮮側として中国軍*1も参戦します。

大量生産・大量消費の現代戦は、朝鮮半島に荒廃をもたらしました。
ちなみに、国連軍が朝鮮半島に投下した爆弾は60万トンを超え、これは太平洋戦争で日本本土に投下された量の3倍に達します。
人的被害については、1953年7月27日の休戦までに、南北及び国連軍、中国軍合わせて200万人以上が死傷。さらに民間人も南北合わせて100万人が犠牲になったとされます。

その頃の日本

さて、大量破壊と大量殺戮をもたらした朝鮮戦争ですが、敗戦後間もない日本の経済にとっては追い風となりました。
日本にいた米占領軍が国連軍の名のもとに出動し、日本がその補給基地となったことで、米軍の物資および労務需要が生じ、これは日本経済に活況をもたらすこととなります。
この需要のことを「特需」と称しましたが、この特需は朝鮮戦争開戦2ヶ月で1億ドルを超えました。前年、1949年の輸出総額が5億ドルであったことと比較すると、需要増大の急激さがお分かりいただけるかと思います。
ちなみに、当時トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)は破産寸前で給与の遅配・欠配が続く状態でしたが、朝鮮戦争勃発によりトラックの大量発注が舞い込み、奇跡的な再建を遂げたなんてエピソードもあります。

この朝鮮特需のインパクトがよほど大きかったのか、日本では「戦争はもうかる」というイメージが一部の人に定着しました。なぜか、自国が戦争主体となっても、経済に好影響だと考える経済評論家さまもおられるようです。あ、どっかの副総理だか財務大臣だか*2も同じ認識みたいですね。

後方から前線へ

さておき、朝鮮戦争における米軍の「補給基地」として、兵員や物資の輸送、兵器や軍需品の修理・生産、基地の提供、傷病兵の治療、果ては兵士の「慰安」まで様々な「後方支援」を行なった日本でしたが、実は後方から「前線」へ躍り出る可能性もあったことは、あまり知られていません。

1950年8月10日、陸上自衛隊の前身である「警察予備隊」が交付され、その編成と訓練には米軍事顧問団があたることとなりました。
この編成と訓練は、ちょうど中国義勇軍が参戦し、国連軍が撤退を繰り返していた時期と重なります。

1951年1月3日、米極東軍司令部は、警察予備隊を「朝鮮戦争の必要に合致し」米地上軍と同水準の重装備を持つ兵力として育成、増強を行なうことが緊要で、そのために米国側が予算措置をとるべきであると統合参謀本部に要請します。統合参謀本部はこの案を支持、マーシャル国防長官も賛成したといいます。
これは、警察予備隊が本格的な軍隊として再編され、朝鮮に派兵されて戦闘する可能性が現れたことを意味していました。
しかし、3月1日、米国務省はこの要請を拒否します。その理由としては、ソ連が日本に報復攻撃を行なう可能性が高まること*3、そのように日本を「使う」ことで対日政策において孤立する可能性があることが挙げられます。後者においては、対日講和の実現に向けて協力してきた英国までもが離反するだろうと判断されました。

さて、米統合参謀本部は、この国務省の判断についてあえて争おうとはせず提案を取り下げました。
その背景には、日本国内での平和四原則(全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対、再軍備反対)を支持する運動の激化があります。各労組団体も次々と大会決議を挙げ、平和四原則を支持する立場を表明していました。
米統合参謀本部は、「深い平和主義と反軍国主義の感覚が日本の大衆をとらえている」と観測、日本の再軍備を図ったとしても民衆の支持が得られないと判断します。

こうして日本は「参戦」を回避することができました。最近の風潮では、なにやら一部の人に小馬鹿にされがちな平和・反戦運動ですが、この時はちゃんとその効力を発揮したわけです。

最後に

朝鮮戦争中の米政府は、少なくとも2度、核攻撃を実行しかけています。
一度目は1951年4月7日、中距離爆撃機に原爆を搭載させてグアムに待機させたものです。しかし、この爆撃機は最終発信予定地である沖縄に移動させられることなく米国に帰還しました。
二度目は、1953年5月、アイゼンハワー大統領のもとで原爆投下計画が検討され、国家安全保障会議も承認しました。しかしこの計画について、アイゼンハワーは日本の人口集中地に対する防衛計画の裏付けがなく、ソ連の報復攻撃に無防備のまま原爆攻撃を行おうとしているとし、決定書への署名を拒否、計画を中止させます。
このときアイゼンハワーは「状況が許すなら核攻撃計画もあり得ると思うが、現状ではそれがソ連軍の参戦に途を開き、情勢を不利にすることを私は恐れる」と述べたそうです。
ちなみに、朝鮮戦争勃発時、米高官たちはソ連軍の参戦の可能性が高いこと、その場合に核戦争にエスカレートする可能性があることを議論しましたが、米本土が灰燼に帰すかもしれない危惧を指摘するものはいませんでした。当時、ソ連極東軍の核攻撃基地を叩く米空軍の出撃根拠地は沖縄であり、核戦争が始まったとしても、被害は沖縄や日本本土にとどまると考えていたためです。
当時の日本は割と危機的状況にあったわけですね。

ついでの余談。1950年7月11日、福岡県小倉市(現北九州市)の在日米軍基地から、朝鮮戦争に派兵される予定だった米兵160人が武装したままで脱走するという事件がありました。脱走兵は暴行・略奪・強姦などを繰り返した末に、7月15日に米陸軍2個中隊により鎮圧されます。
当時、朝鮮戦争において国連軍は連敗を重ねている時期であり、危険な戦場に送られる絶望感がこのような事件を引き起こしたと言われています。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

朝鮮戦争―38度線・破壊と激闘の1000日

歴史群像アーカイブ volume 5―Filing book アジア紛争史

 

 

*1:一応「志願軍(義勇軍のこと)」という名目で参戦。国際法上の問題を避けるためと、派遣の主体を中国政府ではないことにして全面戦争を回避するためでした。

*2:当時

*3:朝鮮戦争におけるソ連の立ち位置について、今回記事では触れませんが、なかなか複雑なものがありました。