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システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争を知ろう】大日本帝国空軍?【旧日本軍の航空隊】

このところ、第二次大戦時の航空機について、あだ名や略号符、命名規則の記事を延々書いてきています。

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【戦争と兵器を知ろう】日本軍航空機の名前【太平洋戦争】 - Man On a Mission

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【戦争と兵器を知ろう】イギリス軍・ドイツ軍航空機の名前【第二次大戦】 - Man On a Mission

これらの記事中、日本軍の航空機について、なんの気無しに陸軍機だの海軍機だのと書いてきましたが、この点について少し補足しておきます。

旧日本軍には「空軍」はありませんでした。では航空機はどこが運用していたかというと、陸軍・海軍それぞれに航空部隊があり、この別々の組織が、別々に導入して、別々に運用していました。

日本軍における航空機の初飛行は、陸軍が明治43年(1910年)、少し遅れて海軍が大正元年(1912年)です。

陸軍は1910年12月19日、フランスから購入したファルマン機で徳川好敏(とくがわ よしとし)大尉が、ドイツから購入したグラーデ機で日野熊蔵(ひの くまぞう)大尉が初飛行を行いました。
(余談ですが、徳川大尉は徳川将軍家御三卿のひとつであった清水家の、七代目当主・徳川篤守(とくがわ あつもり)*1伯爵の嫡男であり、「世が世ならお殿様」でした。)

海軍は1912年11月2日に、米カーチス水上機で河野三吉(こうの さんきち)大尉が、仏ファルマン水上機で金子養三(かねこ ようぞう)大尉が初飛行しています。

その後は、1914年の青島出兵時に9機の陸海軍機が出動して港内のドイツ軍艦に爆弾投下を行なったり、シベリア出兵にも小規模ながら出動したりと、目立った戦果は上げていないながらも、順調に発展を遂げ、1920年代後半には、航空機国産化へ移行しています。
しかしながら、当時世界の大勢となりつつあった「航空部隊の独立」すなわち空軍またはそれに準ずる体制構築については、陸軍側の要請を海軍側が拒んだこともあって最後まで実現できませんでした。
そのため、陸軍航空部隊、海軍航空部隊のまま太平洋戦争を戦っています。

ちなみに、第二次大戦突入時に独立空軍を保有していた主要国は、イギリス(1918年空軍創設)、イタリア(1925年)、フランス(1933年)、ドイツ(1935年)などがあります。
意外に思われるかもしれませんが、アメリカ、ソ連も日本と同じく独立空軍は持っていませんでした。

空軍をつくろう

とはいえ、日本軍も何も考えずに航空機を運用していたわけではなく、何度か空軍設立の提案がされています。

大正9年1920年)、陸軍側から統一空軍設立の建議がなされました。これを受け、陸海軍は共同で陸海軍航空協定委員会を設置し検討を行なっています。
しかし、陸軍の提議に対して海軍側が難色を示し、同委員会は翌大正10年6月に現状維持を決定、空軍創設には至りませんでした。
なお、なにも成果が無かったわけではなく、一応は陸海軍の役割分担が決まっています。日本本土防空については原則陸軍航空が担うこととなりました。

次の機会は、昭和10年(1935年)4月の伊藤周次郎陸軍少将を団長とする航空視察団の欧米派遣をきっかけに生じます。
同使節団は、昭和11年2月、視察内容を基とした意見書を提出しますが、ここで空軍独立を強く訴えています。
その後も昭和15年まで3回にわたる欧州使節団が派遣され、航空関係者だけでなく陸軍全体で独立空軍創設の機運が高まっていきました。
(ちなみに、後に「マレーの虎」とあだ名された山下奉文中将も視察団長に任ぜられたことがあります。その際の報告文書にも「陸海軍ノ有スル航空兵力ヲ一元的二統帥運シウル独立空軍ヲ建設スルヲ緊切トス」とありました。)

また、昭和11年5月、陸軍・海軍大学校の教官を兼務する青木喬(あおき たかし)陸軍少佐と加来止男(かく とめお)海軍中佐が連名で「独立空軍建設ニ関スル意見」を、陸海軍大学校長に提出しています。

だが断る

しかし、こうした動きは全て立ち消えとなっていきました。主な理由としては、海軍側の消極姿勢が挙げられます。海軍では、艦隊作戦に航空機は不可欠であるため、これを切り離すことについて反対意見が上がっていました。
さらには、軍隊というのは巨大な官僚組織とも言えますので、セクショナリズムによる反対という一面もありました。
空軍統一を図った場合、規模の大きい陸軍の航空部門に飲み込まれ、自分たちの作戦に寄与できなくなる、と考えていたようです。
(そのため海軍内では、海軍航空本部を中心とした海空軍創設論(海軍が将来的に航空主兵に移行し、海軍が完全に空軍機能を持つ)なんてのもありました)
なお、上記の考えについては一概に否定できない点もあり、早期に空軍を創設したイギリス軍では、海軍機の開発権限も空軍および航空省の管轄下に置かれたことから、海軍航空の発達に悪影響を及ぼしたことが指摘されています。
(イギリス軍では、海軍向けの航空機の開発整備は後回しにされ、空軍機の「お下がり」ばかり供給されました。結果、第二次大戦中期にはアメリカに艦上機の供給を頼るようになっています。)

組織守って日本守らず

さて、独立空軍の創設は無理でも、陸海軍の協同くらいは柔軟に行なって欲しいところですが、残念ながら陸軍・海軍それぞれの航空隊は主目的が異なることもあって、こちらも色々問題がありました。
例えば、陸軍機は通常、洋上飛行訓練を行いません。陸軍航空部隊では敵陣地や軍需工場の爆撃などが主目的であり、海上に出て敵艦を攻撃することは「海軍航空隊の仕事」なのです。

余談ですが、ソロモン攻防戦で航空戦力を消耗した海軍が、天皇を通じて陸軍航空の支援を要請したことがあります。
その際、陸軍参謀本部航空班長の久門有文(くもん ありふみ)中佐は「俺の目の玉の黒いうちは一機も出せぬ」と妙な頑張りを見せ(?)突っぱねました。
その後、久門中佐は飛行機事故で殉職。これにより、昭和17年末から陸軍航空の一部をソロモンおよびニューギニア戦線へ派遣することとなります。しかし、進出途上で三式戦闘機の一個戦隊が海没したり、監視網の不備から連合軍の爆撃により数百機が飛行場で焼かれたりと、戦力発揮できないまま終わりました。

なお、日本同様に空軍をもたなかったアメリカ軍は、普通に連係して普通に共同作戦をこなしたりしてました。
(まあ、それなりに軋轢もあったのでしょうが。)
サイパンから洋上を2500キロ飛んで日本本土を爆撃したB29重爆撃機は、陸軍航空隊だったりします。

最後に

戦後、アメリカは第二次大戦での日独に対する戦略爆撃の成果を引っさげた陸軍航空隊を基礎として、1947年に空軍独立を果たします。
(ちなみにソ連は1946年。)
日本もアメリカ空軍の影響を受け、昭和29年(1954年)に航空自衛隊が成立しました。なお、航空自衛隊設立に至るまでも、旧軍関係者による多少のすったもんだがあったとか。
(旧陸軍関係者の日本空軍創設研究会と、旧海軍関係者の新海軍再建研究会*2

 

*1:最後の将軍、徳川慶喜の甥にあたります。

*2:通称Y委員会