Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【旧日本軍】はじめてのひこうき【航空機の導入】

前回、「大日本帝国空軍」の記事*1を書きました。

oplern.hatenablog.com

前回記事中、日本における飛行機の初飛行の話について少し触れていますが、今回はそのへんをもう少々掘り下げて書いてみたいと思います。

はじめてのひこうき(人類編)

前回も書きましたが、日本における飛行機の初飛行は明治43年(1910年)12月19日です。

ライト兄弟による飛行機の世界初飛行は1903年ですので、その7年後には日本で初飛行が行なわれたわけです。
これを遅いとみるか早いとみるかは、意見の分かれるところでしょうが、第一次大戦勃発時の1914年時点では各国とも航空技術は未成熟でしたので、軍用機としては、まあそこそこ早い段階で着目したと言えるのではないでしょうか。

ついでなので、揺籃期の飛行機について少し書いておきます。

ご存知の通り、飛行機の世界初飛行はライト兄弟によるもので、1903年12月17日、米ノースカロライナ州キティホークのキルデビルヒルズで行なわれました。
ライト兄弟は自ら開発したライトフライヤーを駆り、有人動力飛行に成功します。
ライトフライヤーは、胴体構造を持たず、複葉形式の主翼と前後に分かれた水平前翼・垂直尾翼とをフレームでつなげた構造となっています。操舵機構は翼のたわみを利用するもので、後のエルロンのような独立した補助翼は備えていませんでした。
後にこのライトフライヤーをベースに、軍用機版のライト・ミリタリー・フライヤーが制作されますが、運用試験機にとどまっています。

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ライトフライヤー号

なお、このライト兄弟のプロジェクトと同時期に、アメリカ政府は科学者サミュエル・ラングレーに資金提供を行い飛行機開発を進めていました。
(この背景には、米陸軍による要請があります。)
ラングレーの手になる飛行機「エアロドローム号」は1903年10月7日に初飛行試験を行なうも失敗、その後12月8日に再度飛行試験を行いますがこれも失敗。「人類初の有人動力飛行」は、わずか9日後のライト兄弟の民間プロジェクトにより達成されることとなります。
政府と陸軍は、自身らの国家プロジェクトの失敗により、しばらく飛行機に対して消極的となってライト兄弟の成功にもあまり関心を示さなかったとか。

はじめてのひこうき(日本編)

さて前述した通り、日本では明治43年(1910年)12月19日に飛行機の初飛行が行なわれました。
これは陸軍が主導する臨時軍用気球研究会が主催したもので、徳川好敏(とくがわ よしとし)陸軍大尉と日野熊蔵(ひの くまぞう)陸軍大尉が、代々木練兵場(現在の東京・代々木公園)で日本初飛行を記録しています。
なお本来、12月15日、16日を予定していましたが、使用機の故障や転覆事故といったトラブルや悪天候により、4日遅れの19日実施となったようです。

飛行機は、徳川機が仏ファルマン機で、日野機が独グラーデ機を使用しました。
ファルマン機は複葉機で50馬力の発動機を搭載、重量600キロ、翼幅10.5メートル、全長12メートルです。
グラーデ機は発動機24馬力を搭載する単葉機で、重量330キロ、翼幅10メートル、全長7.5メートルでした。

両大尉は、操縦技術習得のためヨーロッパに派遣され*2、それぞれがファルマン機、グラーデ機を購入して日本に帰還、テストフライトに臨んでいます。

12月19日朝、日野大尉のグラーデ機がまず飛行を試みますが、発動機が回転しないというトラブルにより、先に徳川大尉のファルマン機の飛行が行なわれることとなります。
徳川機は離陸に成功し、高度70メートルで水平飛行に入り、ゆっくり練兵場を一周した後、みごと出発点に着陸しました。この日本最初の公式飛行記録は、時間にしてわずか3分、飛行距離3000メートルでした。
この後、日野大尉も飛行を成功させ、20メートルほどの高度で練兵場上空を約1000メートル飛行しています。

この記録会では、10万人を超える観衆が集い、初めて見る飛行機の飛行に熱狂したといいます。
しかしながら、軍部内での飛行機への関心はそれほど高いものではなく、当日参観していた将軍のなかには「飛行機なんてものは山川や長岡のような変人にまかせておけばいい」などと放言するものもいたとか。

徳川好敏と日野熊蔵、そして長岡外史

ここからはやや余談となります。

初飛行に成功した両大尉ですが、彼らはかたや清水徳川家の血筋、かたや発明家という「濃いキャラ」でした。

徳川好敏という男

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徳川好敏は、徳川氏御三卿の一つ、清水徳川家の第8代当主です。父は徳川篤守(とくがわ あつもり)伯爵で、最後の徳川将軍、徳川慶喜の甥にあたりました。
当時、皇族や華族の健康な子弟は、陸海軍の将校養成学校に入るのが慣例であり、好敏も1903年士官学校の工兵科を卒業しています。
日露戦争では情報将校として第一軍参謀部に派遣。現地満州馬賊へのスパイ教育の責任者として活躍したようです。

ちなみに、清水徳川家出身とはいうものの、1899年には実父の徳川篤守が爵位を返上するという事件が起きています。
篤守は外務省に籍を置き、社会事業や殖産興業など多方面の活動をしていましたが、経済的に行き詰まり借金、債権者から訴えられ華族としての礼遇を停止されました。その同年に、華族としての体面を維持できないとして爵位を返上しています。
このため、好敏の飛行機初飛行は、清水徳川家の名誉回復のチャンスとなったというものもいます。

閑話休題
徳川好敏はその後、日本陸軍最初の航空部隊である航空大隊において、初代の飛行中隊長を命ぜられます。以後、航空機畑の将校として陸軍航空学校教官や研究部長を歴任、昭和3年(1928年)には華族に列せられて男爵を授爵しました。なお、最終階級は中将です。

ちなみに、好敏はその長い航空歴のなかでも死亡事故や大事故を起こさなかった名パイロットとしても名を残しています。
初飛行の翌年、日本民間航空のパイオニアとなる伊藤音次郎に「空気の階段を登るように登る」と初飛行の秘訣を語っています。これだけだと言ってる意味がよくわからないのですが、要は初期のエンジンは力が弱いため一挙に上昇しようとせず、こまめに上昇と水平飛行を繰り返すことで徐々に高度を上げろ、という意味だそうです。この言葉は、後の日本パイロットの合言葉になったとか。

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日野熊蔵という男

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徳川好敏と比べて、日野熊蔵大尉はその後、不遇の人生を送っています。
初飛行当時、日野は既に発明家として知られており、徳川好敏よりも注目を浴びていたようです。
(実績としては、日野式自動拳銃の開発などが知られています。)
しかし、前述の通り初飛行においては発動機の不調から、徳川好敏に「公式の初飛行」の座をゆずることとなりました。

その後、日野は日野式飛行機の開発に取り組むも失敗、以降、軍務において航空に関わること無く1918年に軍を離れることとなります。
以後、回転翼機無尾翼機などの開発に関わるものの、いずれも実用化に至りませんでした。
1945年には東京大空襲により自宅を焼失し、敗戦翌年の1946年に栄養失調により死去しています。

恐怖!長岡外史の恐怖!!

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初飛行の記録会を主催した臨時軍用気球研究会の初代会長、長岡外史(ながおか がいし)についても触れておきましょう。

まずは、不適切な節タイトルについてお詫びしておきます。ごめんなさい。
さておき、長岡は陸軍中将、退役後、衆議院議員という経歴をもつ人物ですが、飛行機の普及を図るため大正4年(1915年)に国民飛行会を設立し、日本中を飛び回って人材の顕彰や育成にあたった「飛行機将軍」でもあります。
初飛行時の誰かの放言にみられた「長岡のような変人」という言葉通り、少々変わり者として知られていました。しかし、変わり者だけあって新しいものを受け入れる柔軟性を持っており、スキーを日本軍に初めて導入したなんて話も。また、人柄が誠実で他者への配慮を忘れなかったとも言われており、多くの人に慕われていたようです。

ちなみに日露戦争時は大本営参謀次長でしたが、二〇三高地攻撃の度重なる失敗の折、気球による偵察と攻撃を指示するも、現地の第3軍司令官乃木希典の反対で実現しなかったとか。
その後、陸軍中将に昇進し、臨時軍用気球研究会の会長に就任、飛行機の開発に熱心に取り組むこととなります。

なお、今まであえてスルーしてきましたが、写真のアレについて本人は「プロペラヒゲ」と称しており、40センチにも達する長さを誇るそうです。おっかねえ。

 

 

*1:もちろん、大日本帝国に空軍なんてありませんでした。内容はなぜ独立空軍を実現できなかったかについてです。

*2:徳川大尉はフランスのアンリ・ファルマン飛行学校、日野大尉はアンリ・ファルマン飛行学校の後ドイツのヨハネスタール飛行場