Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争と兵器を知ろう】斜陽の零式艦上戦闘機【零戦/ゼロ戦】

前回記事の続き、ゼロ戦こと零式艦上戦闘機についての続編です。
なお、前回記事はこちら。

oplern.hatenablog.com

今回は前回予告の通り、太平洋戦争中盤以降のゼロ戦の活躍と、三二型、二二型、五二型、六二型について。

ゼロ戦の苦闘

ゼロ戦の優位は主に航続力、旋回性能、重武装(20mm機銃)によっていました。
特に戦闘機同士の格闘戦において重要なのは旋回性能です。旋回性能が高ければ、敵の背後につくなど有利なポジションを占位し、戦いを優勢に進めることができました。
太平洋戦争前半において、ゼロ戦は連合軍機を圧倒、高い戦果をあげています。
太平洋戦争の転機となったミッドウェー海戦でさえ、ゼロ戦の戦果だけに絞れば一方的とも言える勝利を納めており*1、米F4F-4でゼロ戦と交戦したサッチ少佐は「F4F-4は上昇力、運動性能、速力いずれの点でも零戦に著しく劣っている」と述べています。

しかしながら、太平洋戦争が長期化するとゼロ戦の優位性は次第に失われていきました。
いくつか理由はありますが、世間一般的なイメージでは、高性能のゼロ戦に対してアメリカは物量戦を挑むことで戦局をひっくり返した、なんて言われてきました。
確かにアメリカの物量が(比較にならないくらい)優位にあったことは事実なのですが、こういった単純な捉え方は、やはり実像との食い違いがあります。
(そもそも、太平洋戦争前半の米海軍主力機F4Fがそれほどゼロ戦に劣っていたかも疑問だったり。サッチさん、ごめんなさい。)
以下、ゼロ戦の優位性が失われる経緯を。

ゼロ戦の翳り方

1942年6月に無傷の二一型が米軍に鹵獲され研究されたこともあって、米軍は対ゼロ戦の戦い方を変えてきます。
従来は水平面での格闘戦に引きこまれがちでしたが、これは旋回性能に優れるゼロ戦に有利な土俵で戦ってきたことを意味しています。
ゼロ戦は防弾および急降下性能が貧弱であり、逆に米F4Fは機体の頑丈さから優れた急降下性能を持っていました。アメリカはこの点に着目し、格闘戦を避け、一撃離脱戦法を取るようになります。
これは、ゼロ戦の上空から急降下し一撃を加え離脱する、というもので一見消極的な戦法に見えますがゼロ戦にとってはやっかいなものでした。

また、前述のサッチ少佐*2はこれに併せて、1機のゼロ戦に対して2機1組で襲いかかる相互支援戦術「サッチ・ウィーブ」を考案します。「サッチ・ウィーブ」は2機が互いにクロスするようにS字旋回を繰り返すことで、敵機に後方を取られても、僚機がその敵機のさらに後ろを取って援護することができました。

一撃離脱とサッチ・ウィーブにより、1942年夏以降、F4Fはゼロ戦に対しても優位に立つようになっていきます。
ガダルカナル島を巡る戦いでは、ジョゼフ・フォス少佐(26機撃墜)やジョン・L・スミス中佐(19機撃墜)などF4Fエースが多数誕生しました。

また、日本側の熟練パイロットの消耗も理由の一つとして挙げられます。
米海軍のエースが多数誕生したガダルカナル戦では、逆に日本側の消耗が大きく、ゼロ戦とそのパイロットの喪失は、補充を大きく上回りました。
これは日中戦争から戦ってきた優秀なパイロットが多数失われたことを意味します。
(これに対して、アメリカでは平均的パイロットでも十分に戦える機体/戦術を持っていました。なおパイロット育成力も高いレベルにあり、当時のアメリカの「戦争力」は目を見張るものがあります。)

さらに1943年秋以降には、2000馬力級の戦闘機F6Fが登場、ゼロ戦は機体性能でも凌駕されることとなります。
日本海軍は本来3年を基準に戦闘機を更新する慣例となっていましたが、後継機の完成が遅れ、終戦までゼロ戦を主力戦闘機として戦わざるを得ませんでした。)

ただ、劣勢の中でもゼロ戦は敢闘し、中でも岩本徹三(いわもと てつぞう)少尉が202機撃墜、西澤廣義(にしざわ ひろよし)飛曹長が87機撃墜、杉田庄一(すぎた しょういち)一飛曹が70機撃墜など、エースパイロット達は凄まじい活躍を見せています。
ゼロ戦が第二次大戦を代表する戦闘機の一つであることは間違いないでしょう。

ゼロ戦三二型以降の各機体

さて、ここからは三二型以降の機体について簡単に触れていきたいと思います。
前述の通り、後継機の遅れからゼロ戦終戦まで主力戦闘機として戦っています。連合軍機の性能向上に対抗するため絶えず改良が行なわれた結果、多数の型が生産されています。

三二型

エンジンを「栄」二一型に換装し、翼端を角型に成形した型です。
生産数は343機。
速度、横転性能、加速力などが向上、さらに20mm機銃の装弾数も増加しました。
しかしながら、航続力および旋回性能が低下、ちょうどガダルカナル戦において、ラバウル − ガ島間での作戦が必要とされていた時期であり、当該距離を往復できない三二型は不評を買いました。
ちなみに、米軍は翼端の短い三二型を新型機と誤認、他のゼロ戦と異なるコードネームをつけてしまったという逸話があります。
(三二型のコードネームは「HUMP(ハンプ)」、他は「ZEEK(ジーク)」。)

二二型

三二型の翼端を半円形に戻し、片翼40リットルずつの「翼内増槽」を設けた型です。
これにより航続力や旋回性能が回復、もっともバランスのとれたゼロ戦といわれることもあります。
なお、二二甲型からは20mm機銃が長銃身のものに換装されています。
生産数は560機。

五二型

二二型を改良して速力向上を狙った型です。
主翼全幅が1m短縮され、排気管はロケット効果のある推力式排気管となりました。最大速度は565km/hに向上しています。
さらに、翼内タンクに自動消火装置が装備されました。
何度か改良が施されており、20mm機銃の装弾数が増加した五二甲型、機首右の機銃を7.7mmから13mm機銃に換装し風防に防弾ガラスを装備した五二乙型主翼内に13mm機銃2挺を追加し座席後ろに防弾ガラスと防弾鋼板を装備した五二丙型があります。
(なおこれらの改良による重量増加で速度は低下しています。)

五二型とその派生型は、約6000機が生産されました。

六二型

太平洋戦争末期に登場した六二型は、250kgまたは500kg爆弾が搭載可能な「戦闘爆撃機」型です。
その多くが特攻機として使用されました。

その他の型

他にも、五二丙型のエンジンを「金星」六二型に換装した五四型(試作機2機だけ生産。量産型は六四型とされたが生産中に終戦)、五二丙型のエンジンを水メタノール噴射装置付きの「栄」三一型エンジンに換装した五三型(量産前に終戦)などがあります。

 

 

*1:まあ、作戦目的の達成どころか、主力空母四隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)全てを喪失したような海戦で、「ゼロ戦(だけ)は大勝利!」なんて言ってもあまり意味はないのですが。ノモンハン事件で、ソ連側に有利な国境線が策定されたのに「ソ連の方が損害が大きいから日本軍の勝利!」とか言ってる一部のアレな人みたいなことを言って恐縮です。

*2:ジョン・スミス・サッチ海軍少佐。最終階級は海軍大将。