Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本陸軍の兵営生活】ぐんたいぐらし!【内務班】

えー、まずは記事タイトルについて謝罪いたします。ごめんなさい。他意はありません。

それにしても、ゾンビものは根強い人気を誇っていますが、人気の秘密は一般人でも立ち回り次第でサバイバルできそうな気がする*1ところでしょうか。

ゾンビサバイバルガイドとかの「ゾンビ対策本」が出版されるあたりは、他のホラージャンルにはあまり見られない特徴ですね。

ちなみに、しばらく前にはイギリスの公共放送局BBCがゾンビ対策ムービーなんてのを公開して話題になったこともありました。

www.youtube.com

この動画は、実は「In The Flesh」というテレビドラマの宣伝用に作られたものだったそうです。まあ、「空飛ぶモンティ・パイソン」を放送していた公共放送ですから、特に驚きもしませんけど*2
イギリス、ゾンビ、サバイバルといえばショーン・オブ・ザ・デッドなんかも良かったですね。

個人的には、クトゥルー界隈も負けずに旧支配者対策本とか出してほしいところです。

さて、冒頭から横道にそれまくってしまいましたが、本日記事はゾンビと一切関係なく、大日本帝国陸軍における兵士の軍隊生活単位「内務班」についてです。どうしてこうなった…。

軍隊生活の単位

過去に陸軍の部隊単位について、一番小さな単位の分隊から最大単位となる総軍までの記事を書いたことがあります。

oplern.hatenablog.com

これらの部隊単位について、小さな方から部隊単位を3つ挙げると、分隊・小隊・中隊となるのですが、実のところ分隊・小隊は平時においては編成されていません。小隊以下は戦時または演習時に設けられるものとなっています*3
上記、部隊単位の記事でも書きましたが、平時より編成されている中隊は、多くの国で平時の兵営生活の基本単位となっています。中隊は下士官・兵にとっての「ホーム」であり、「同じ釜の飯を食う仲間」なのです。

とはいえ、中隊はおおむね120〜200名程度の規模をもち、そのまま日常生活の場とするには大きすぎます。
このため、実際には中隊をいくつかに分割したグループを設け、グループ単位で行動することとなります。日本陸軍では、このグループを「内務班」と称していました。
明治41年(1908年)12月の軍隊内務書改定以降。それ以前は「給養班」と呼んでいました。)

なお、内務班は基本的に平時編制の兵営のみに存在する組織で、教育と部隊の運営を目的とした最小単位となります。

内務班

一般的な内務班の構成について。
内務班は、一個中隊の兵舎を4〜8室に区切り、各室に二年兵、初年兵それぞれ半数ずつで構成されます。
人数は十数名からそれ以上となり、一定していません。
軍曹などの下士官が班長となり、上等兵の最先任者*4が副班長的な立場となります。
(戦時には小隊・分隊に再編され、班長は分隊長となります。)
なお、初年兵の三ヶ月間の基礎教育が済んでいない場合*5、内務班内より成績優秀な上等兵を教育掛の助手として選任します。

内務班では、一応というか建前としては、二年兵(古年兵)が初年兵の面倒をみる、ということになっています。そのため、寝台の配置も古年兵と初年兵が交互に置かれました。
しかしながら、実態としては初年兵は古年兵に「お仕え」して日常の世話をすることが慣例でした。「古年兵が初年兵の面倒をみる」どころか、初年兵が古年兵の世話を焼くことになるわけです。
さらには、古年兵が初年兵に暴力を振るう「私的制裁」も日常的にありました。私的制裁については別途記事にしてますので、詳しくはそちらをどうぞ。

oplern.hatenablog.com

なお、内務班長となる下士官らは、4人程度の相部屋となる下士官室で寝起きしており、内務班の兵たちと寝起きしていたわけではありません。
ちなみに、日本陸軍の慣習では、兵は下士官のことを階級・役職に関係なく「班長殿」と呼んでいました。

さて、兵士たちは、この内務班にて訓練や演習、書類仕事などの勤務、将官官舎の当番や、清掃といった使役に出ることとなります。これらの課業や勤務は軍隊内務書に定められており、日日命令により行われていました。

ついでに、兵営生活における兵たちの一日のスケジュールも挙げておきましょう。

起床は5時半〜6時(冬)、服を着て日朝点呼(にっちょうてんこ)の後、寝具をたたみ、洗面、掃除、朝食となります。余談ですが歯ブラシや歯磨き粉、石鹸などは兵が自前で購入しています。食後は、初年兵は武器の手入れ、二年兵は銃剣術の訓練を行いました。
(ちなみに日本軍では「兵器は天皇から下賜されたもの」であり、偏執的な整備が求められました。初年兵の銃にゴミでもついていようものなら、何時間も銃に向かって「お許しください」と大声で詫びさせ続けるといった中学生のいじめのような私的制裁を受けたとかいう話があります。)
8時から午前の学科または演習を行い、12時には昼食となります。午後1時から演習となりますが、初年兵は4時ごろに終了し、武器・被服の手入れを行いました。その後は入浴となります。
夕食は午後5時半で、その後は休養、8時半に日夕点呼(にっせきてんこ)です。消灯は9時で、点呼から消灯までの短い時間に二年兵たちは談笑したりもしてましたが、初年兵はこうした時間的余裕を楽しむこともままなりませんでした。
なお、日曜、祭日は勤務者以外は外出できます。兵は朝食から午後4時半まで、下士官は午後9時に帰営となっていました。

最後に

ちなみに、日本陸軍の教育年度は毎年12月1日に始まり、翌年11月30日までとなっています。
徴兵により現役兵として入営後、2年の現役を終えると満期となります。入営2年後の12月に満期除隊となるわけですが、その際には親戚や友人に記念品(盃とか)を配ったりしました。
(満期除隊後は、15年4ヶ月と定められた予備役になり、その後は第一国民兵役となります。これら兵役では普段は民間人として生活し、必要に応じて軍から招集されます。)
しかし、これも平時における話で、戦時ではそのまま即日招集となり各地での勤務につきました。辛い兵営生活の後には、さらに辛い戦地生活が待ってるかもしれないわけですね。

ついでの余談ですが、兵営では一人に一つの寝台があるイメージを持ってるかと思いますが、戦時下では、それすらままならないケースもあったようです。
1942年の東部第六三部隊(甲府)兵営では、普通は40名、最大46名が一部屋に押し込められることとなり、寝台を部屋いっぱいに隙間なく並べ4つの寝台の上に5つほどのわら布団を並べることで対応していたとか。密集生活のため衛生環境も劣悪化し、結核などの感染症が深刻な脅威となっていたようです。

 

 

*1:気がするだけ

*2:とはいえ、BBC側は途中でモンティパイソンのヤバさに気づいて検閲を行ってたようです。

*3:一応の注意書き。戦争中であっても、命令が下らない限りは軍隊は平時編制のままです。

*4:伍長勤務上等兵、のち兵長

*5:この期間の初年兵のことを新兵と言います。正確には「生兵(せいへい)」。