当ブログでは、しばらく前より日本近代史…というか太平洋戦争に関する記事を書くことが多くなりました。
そういった記事でなんの気無しにつかっている言葉に「御前会議」というものがあります。
しかしながら、この「御前会議」なるものがいったいどういったものなのか、明確に知っている人は少ないのではないでしょうか。
三省堂大辞林によれば、御前は「天皇や貴人の前。また,神仏の前。」ということですが、まあ、その名のとおり天皇の御前で開かれる会議で、この辺まではイメージできている方も多いと思います。
今回記事は、この「御前会議」について、もう少しだけ踏み込んだ話を。
御前会議ってなに?
御前会議は、天皇臨席の上で重要な国策について論議し決定するための会議です。
大日本帝国における最重要会議といえますが、実のところ御前会議は法制上のものではなく、いわば慣例的なものでした。
(一応、枢密院*1や大本営の会議に天皇が親臨すればそれも(広義の)御前会議といえなくもないのですが、通常、それらとは別に閣僚や軍部首脳が出るものを「御前会議」と呼んでいます。)
御前会議は、明治時代にはしばしば開かれていましたが*2、大正時代には開催されず、昭和13年に復活開催されています。
杉山メモ*3には、昭和15年(1940年)11月から昭和19年(1944年)2月まで8回の御前会議が記録されており、このうち、出席者の判明する6回分における常連出席者は以下のとおりでした。
ちなみに、他にも外務大臣、内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長が大部分に出席しています。
また、内務大臣、拓務大臣、司法大臣などの各大臣や、興亜院総務長官・同政務部長も一部会議に出席していました。
なお、天皇の御前で会議はするものの、天皇自身が発言したり決定したりすることはあまりありません。
御前会議の内容
昭和期の御前会議の内容について、いくつか取り上げてみましょう。
昭和に入ってからの第1回目は、日中戦争における南京攻略後、昭和13年1月11日に開催されました。この会議では日中戦争(支那事変と呼称)の処理方針が議題となります。この御前会議を経て、近衛文麿首相は「蒋介石政権を対手(あいて)とせず」なんて言って外交チャネルを自分から閉じちゃうわけですが(第一次近衛声明)、まあ、そのへんの話はいずれまた。
第2回目は、1回目と同年の昭和13年11月30日、日中戦争における漢口攻略戦が終わったけどさてこれからどうしようか、といったことが話し合われます。
第3回目が、昭和15年の9月19日で議題は三国同盟について。同年11月13日の第4回目では、日中戦争を持久戦にするという決定がなされました。
昭和16年に入ると、7月2日、9月6日、11月5日、12月1日と立て続けに4回の御前会議が開かれ、ここで対米戦争が(一応)決定されました。会議が開かれるたびに「対米戦を辞せず」、「辞任せざる決意」、「決意する」とエスカレートし、最後には「やっちゃうぜ」という話になるわけですが、字面を並べてみるとなんか「誰か止めてくれ」感がプンプンしてますね…。
その後も幾度か御前会議が開かれますが、最後の2回はポツダム宣言の受諾に関するすったもんだとなります。こちらに関しては以前の記事で少し取り上げてますので、興味がある方はそちらをどうぞ。
なお、御前会議の決定は直ちにそのまま国家意志の決定となるのではなく、改めてその内容について閣議にかけるなどの正式な手続きを取る必要がありました。
ちなみに御前会議の議事内容については、昭和16年に国防保安法にて保護対象とされています。
最後に
ついでの余談。
太平洋戦争開戦前、日本の外務省暗号はアメリカに解読されるようになっていたわけですが、この外務省暗号は九七式欧文印字機という機械を用いる換字暗号方式(一文字ごとに他の文字に変換する方式)を採用していました。アメリカ側はこの暗号文を「パープル」と呼称しています(パープル暗号についての詳しい話はこちらをどうぞ)。
日本の外交電報は、日本語をそのままローマ字表記にして送っていたため、同音異義語を取り違える可能性があります。
もちろん、外務省の職員であれば独特の言い回しに精通していたため、そのような間違いを犯す可能性は低かったのですが、米側が暗号を解読して英訳する場合には間違いが頻発しました。
この手の誤訳として有名なものに「御前会議」を「午前会議(Morning Meeting)」と訳したものがあります。まあ、日米戦争回避に重大な悪影響をもたらした誤訳と違って害はなさそうですが。