Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【鉄拳制裁】海軍の私的制裁【海軍精神注入棒】

少し前にTwitter上で「軍隊式」体罰のことが話題になってたようです。
旧日本軍では体罰が「違法行為」であるとかなんとか。

日本陸軍で私的制裁が禁止されたりはしてた*1のですが(にも関わらず私的制裁は横行)、いかんせん、各氏の書き込み意図が相互に錯綜して面倒な様相を呈してるっぽくて、正しい事情を把握できそうもないので当ブログでは上記についてこれ以上触れません。
何はともあれ歴史的事実が捻じ曲げられて普及しちゃうような結果にならなければいいなあ、なんていう無責任な感想を述べるくらいが関の山なのですが、せっかく(?)話題になったことでもあるし、今回はごく簡単ながら大日本帝国における海軍式の体罰について触れてみたいと思います。

ちなみに、当ブログでは以前に日本陸軍の私的制裁についての記事を書いたことがあります。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

日本陸軍の私的制裁は、基本技である「ビンタ」以外にも豊富な種類のイジメ制裁を誇っていたわけですが、これに対し、どうも海軍出身者の体験談ではより暴力の側に寄った話が多いようです。中でもよく出てくる話題が、海軍兵学校の鉄拳制裁と海兵団や艦隊勤務での海軍精神注入棒*2です。

海軍兵学校の鉄拳制裁

海軍兵学校は、海軍士官の養成学校であり、広島県呉市西方の広島湾にある江田島に置かれていました。通称、海兵。
明治2年に創設された海軍操錬所が海軍兵学寮を経て明治9年海軍兵学校となり、明治22年江田島に移転、以降「江田島」は海軍兵学校の代名詞となります。

海軍兵学校の生徒教育は海軍将校たる「徳性」と、兵科将校に必要な基本を教えることを目的としています。
その教育内容は、スパルタ式詰め込み教育*3だったのですが、ノイローゼ患者を出すほど上級生から下級生への鉄拳制裁が盛んでした。
「鉄拳制裁(修正とも)」、要は何かあるたんびに上級生が下級生をブン殴って「懲らしめて」たわけです。

海軍兵学校における「鉄拳制裁」はもはや名物と化しており、兵学校長の命令で中止となった時期*4や、最上級生が自発的にやめたケースもあったものの、総じて「海兵の伝統」として継承されました。
何かミスがあったり、満足な出来じゃないと判断されると殴られるわけですが、特段ミスが無くとも難癖をつけられて殴られたケースも散見されます。
1941年12月8日、つまり太平洋戦争開戦の日ですが、この時には「戦争が始まった。貴様達に気合を入れてやる」なんて意味不明な理由で殴られたなんて話もあって、鉄拳制裁に「格別の理由はない」という海兵出身者の方も。
ちなみに、同じ海兵出身者でも「鉄拳制裁」を正しい教育であったと回想する方と、大いに疑問符をつけられる方に別れるようで、この辺は陸軍の私的制裁に対するそれと一緒ですね。

なお、海軍兵学校の前身である「海軍兵学寮」開校の際、イギリスから海軍顧問団を招いているのですが、鉄拳制裁の必要性はそのなかのアーチボルト・ルシアス・ダグラス少佐が主張したものだといわれています。当時の生徒は旧武士がほとんどだったため、当時の校長(兵学頭)中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)少将が拒絶したのですが、結局いつのころからか鉄拳制裁がはびこることとなりました。
日露戦争時の連合艦隊作戦参謀として有名な秋山真之(あきやま さねゆき)は、同期生から「生意気だ」とか理由とも言えない理由で鉄拳制裁を食らったなんて話があります。
秋山は海軍兵学校17期(明治19年入校)ですが、その7年後の24期生の頃には上級生から鉄拳制裁を受けた話が残されており、明治の間には既に鉄拳制裁が常態化していた模様。
日露戦争後は、さらに鉄拳制裁が盛んになっていったようです。

海兵団や艦隊勤務での海軍精神注入棒

海兵団とは海軍の新兵を教育する機関です。各鎮守府に属する機関で、団長は少将となります。
海軍の新兵は、まず海兵団にて画一的・集中的な入門教育を施され、その後に実施部隊と呼ばれる各艦船や陸戦隊などに配属されました。
教育期間は時代・兵種によって異なりますが、概ね3ヶ月から5ヶ月半となります。

海兵団では、新兵は兵種ごとに分隊*5に編成され、さらにそこから「教班」に分割、「教班長」の下士官より初歩教育を受けました。

さて、イジメ私的制裁はこの海兵団教育から始まります。
海軍精神棒、通称バッターと呼ばれる直径5cm、長さ1.5mくらいの棒*6で、新兵の尻を力いっぱい叩くのが「海軍式」体罰の代表です。
バッターを受けて気絶したら、桶に顔を突っ込んで気づけさせてさらに殴ったとか、ロープで梁にぶら下げて殴ったとか、暴虐というかキ○○イというか、陸軍のひたすら陰湿感のある私的制裁とはまた異なるベクトルのものだったようです。陰惨とでも表現すればよいでしょうか。なお、バッター制裁により死に至らしめた事例もありますが、加害者側が罪に問われたりはしなかった模様。
艦隊勤務になるとさらに激しくなったそうで、かつ大艦になるほど凄まじかったとか。

ちなみにバッター制裁は巡検(乗員就寝後の見回り)が終わった後によく行われたそうで、兵が整列させられて下士官が「説教」の後にバッターで叩く、という光景が夜な夜な繰り広げられていました。

最後に

さて、こういった話になると「軍隊なんだから厳しくてあたり前だろ」とか「ミスしたら叱られるのはあたり前」だとか言うバカ方もたまにいるのですが、まあ、やっぱりそんな次元の話ではない感じです。

この手の隊内暴力はどこの軍隊でもある程度行われているものですが、死ぬまで殴り続けるような私的制裁が(全てではないにしても)黙認されていたような日本軍は、陸海ともにかなり悪質な部類にはいります。
特に海軍は将校が海軍兵学校時代に殴り殴られ過ごしてきたせいか、こういった私的制裁を肯定する傾向が強いようです。

人権という概念が希薄な大日本帝国と軍隊の組み合わせでは、当然の帰結*7なのかもしれませんね…。

 

 

*1:とはいえ、私的制裁が軍法会議で裁かれたりすることは滅多にありませんでした。少ないながらも事例はあり、例えば1944年の中国戦線における陸軍上等兵が初年兵に対して行った執拗な私的制裁について、上等兵は傷害罪による懲役6ヶ月の判決を受けています。しかしこの私的制裁が裁かれることとなったのは、私的制裁を恐れた初年兵が自傷による離隊を試みて自身に小銃を発砲したところ他の初年兵に命中、死亡する事件となったためです。上等兵による私的制裁はこの死亡事件の審理中に発覚し処罰されることとなりました。

*2:海軍精神棒、軍人精神注入棒ともいわれます。

*3:昭和に入ってからはアメリカの新教育方法「ドルトン・プラン」という自学自習方式を取り入れたこともあります。成功したかは微妙というか、意見が別れるところのようです。

*4:鈴木貫太郎や井上成美らが禁止しています。

*5:陸軍の「分隊」とは異なります。人員200人位で分隊長は大尉。どうでもいいですが、海軍では大尉のことを「だいい」と発音しました。大佐は「だいさ」。

*6:様々なものがあり、大きさは一定しません。

*7:なぜか被害者を叩こうとする傾向がある日本人気質も大きく作用してそうですね。