Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本軍】私的制裁あれこれ【陰湿と不条理の大和魂】

前回記事にて、日本海軍における私的制裁について触れました。

oplern.hatenablog.com

それ以前には陸軍の私的制裁についても記事を書いています。

【戦争を知ろう】新兵訓練と私的制裁【日本軍】 - Man On a Mission

【日本陸軍】私的制裁の種類【新兵イビリは蜜の味?】 - Man On a Mission

今回記事は、これらの補足というわけでもないのですが、ついでに私的制裁について書きそびれたことを。

陸軍の殴打バリエーション

陸軍における私的制裁の基本技は「ビンタ」となりますが、単純な暴力としては他にもグーでぶん殴ったり、蹴ったり、上靴(兵舎内で履く革製スリッパ)の裏や銃剣の帯革で叩くなんてのもありました。
こういった私的制裁に耐えかねて時々脱走者が出るのですが、そうすると、上から私的制裁を控えろという命令がでたりします。
その場合、古年兵はぶん殴ることを控えて別の私的制裁(こちらを参照ください)に走るか、または傷が目立たないように顔を殴るのはやめたりして対応しました。

将校と暴力

日本陸軍においては、古年兵が初年兵に対して頻繁にビンタ等の私的制裁を行っていましたが、こういった体罰というか暴力は兵士間だけで行われていたわけではありません。
以前の記事でも触れましたが、下士官や将校から暴力を受けることもままありました。
中隊長である大尉が、訓練標語を「私的制裁厳禁」としながらも自身は兵たちに殴る蹴るの暴行を加えていた、なんて話も。

変わったところでは、「少将閣下」が上位のものからビンタを食らったなんて話もあります。
満州事変における馬占山討伐部隊の指揮や、インパール作戦での第33師団長の後任となったことで知られる田中信男中将(最終階級)は、少将時代に「敬礼がなっていない」とかいう理由でお偉いさんからビンタされました。
田中信男中将はあまり敬礼などにこだわらない質だったようで、前線に赴いた際は兵たちの敬礼を省略させるなんてこともあったようです。そのせいか自身で行う敬礼もかなりいい加減なもので、それがおエライサンの気に障ったらしいのですが、なんだかなあという感じの話ではあります。

裁かれない私的制裁

前回記事で、体罰により兵が死亡しても加害者が罪に問われることは少ない旨書きました。
軍人の犯罪に適用される特別法は、陸軍では陸軍刑法(海軍では海軍刑法)となります。同法には「陵虐の罪」が規定されており、上官が職権を濫用して部下に対して残虐または苛酷な行為を行った場合には同法で裁かれるものとされていました。

しかし、私的制裁の大多数は職権行使とは何ら関係のない「一時の憤激」からなされるものと解釈され、私的制裁に「陵虐の罪」が適用されることはほとんどなかったようです。
陸軍法務中佐であった菅野保之は、私的制裁を取り締まる規定が、一般刑法の「暴行及び傷害の罪等」しかないのは不備であると指摘しています。

なお、私的制裁が部隊外に漏れて大事になることを恐れ、隠蔽を図るケースも割とあったようです。
作家の池宮彰一郎は、シゴキに耐えかねて兵舎の陣営具倉庫に放火、みずから名乗り出て軍法会議であらいざらいぶちまけようとしたのですが、表沙汰にされて上まで責任が及ぶことを恐れた部隊が重営倉29日という隊内処分で済ましたといいます。

若くない初年兵と年若の古年兵

太平洋戦争末期には、兵員数の不足から兵役年限ギリギリまで召集をかけました。これにより、十も二十も年下の古年兵から、初年兵としてシゴキを受けた年輩者が続出することとなります。

なお、年輩者に限らず、私的制裁などで恨む/恨まれることはよくありました。
「弾は前からばかりは来ないぞ」というのは、当時の兵の間ではよく聞かれたフレーズですが、硫黄島の戦いでは、戦死・自決などの他に他殺と思われるものが一割ほどあったと生還者が回想しています。

私的制裁防止マニュアル

禁止されてもなかなか減らなかった私的制裁ですが、これを防止するためのマニュアルなんかも市販されてました。「内務班長実務の参考」(武揚社、初刊1935年)などの将校・下士官向けの参考書では、盗難や逃亡などの防止と併せて私的制裁防止法なども記載されています。
では効果の程はどうだったかというと……元兵士の回想では私的制裁の話が大量にでてきますので、残念な結果に終わったとみてよいと思います。