Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦前の日本】大日本帝国の植民地【外地】

しばらく前の話ですが、某インターネットTVの番組にて、大日本帝国時代の朝鮮について「(日本の)植民地じゃない、統治しただけ」という頭が痛くなる珍説見解を述べた方がおられました。

その方が珍説見解をご披露された際に主な根拠として挙げられたのは、平壌に大学を建てたから、大学をつくるということは植民地じゃない、ということでした。その論で行くと、いろんな国のあちこちの植民地が「植民地じゃない、統治しただけ」ということになってしまうのですが。

まあ番組中でも即座に否定されてましたので、この話はこれくらいにしておきますが、戦前日本の植民地には、朝鮮の他に、台湾、南樺太南洋群島などがあります。

当ブログでは、過去にこれら戦前日本の統治領域について少し触れたことがありました。

oplern.hatenablog.com

上記記事と少しかぶるところもありますが、今回は簡単ながら大日本帝国の植民地について。
時間があまりないので概要程度となってしまいますが、ご容赦ください。

大日本帝国の植民地

一般的に、政治上経済上の意味での植民地とは、国の統治区域の一部でありながらも、本来異民族のすんでいるところで、地理上も本国と隔たり、多数の本国人が移住して本国とは異なる別個の社会を形成しているところをいいます。
また、法律上では本国とは別個の法域をなす地域のことを指しています。戦前の日本では、本国のために制定された法規が適用される地域を「内地」、憲法の効力が及ばずその地域のために特別に制定された法規が適用される地域のことを「外地」と呼んでいました。
樺太*1、朝鮮、台湾などは「外地」となります。大日本帝国は、朝鮮・台湾・樺太のことを「植民地」と称することを嫌っており、「外地」という言葉は植民地という言葉を避けるためだという指摘もあります。

なお、政府は朝鮮・台湾・樺太には憲法が施行されて効力が及んでおり、関東州・南洋群島には憲法の効力が及んでない、という公式見解をとっていました。
しかしこれは建前に過ぎず、事実上、これらの植民地には憲法はほとんど効力を有していません。

明治憲法には、「法律ノ範囲内」という制限付きながらも一応は人権の保障が定められてたり*2参政権や、行政が法律に従うという原理があったわけですが、これらは植民地には適用されませんでした。

ちなみに、上記の「外地」という言葉は法規適用上の区分であり、実際の慣用としては様々な用法がありましたので、ご注意を。
(「日本帝国統計年鑑」では外地とは朝鮮・台湾・樺太のみを指してたり、一般的用法では中国(満洲含む)や南方軍政地域も含まれたりします。)

植民地 朝鮮半島

せっかくなので(?)大日本帝国植民地時代の朝鮮半島について少し取り上げておきます。

明治維新以降、日本は殖産興業による富国と軍事力の整備を進め、国力の増強に努めていましたが、こうした施策をすすめる日本にとって、朝鮮半島は極めて大きな戦略的意味を持っていました。
当時、朝鮮は清国の冊封体制下で鎖国政策をとっていましたが、もしこの半島を敵国が支配した場合、日本の国土防衛は極めて危うい状況に置かれることとなります。というのも、朝鮮半島日本海黄海対馬海峡という日本にとって重要な海面を扼する地域だからです。
このことから日本は、朝鮮が開国して独立国として発展し、ロシアや清国に対する緩衝地帯として機能することを望んでいました。

このような考えの基に、日本は朝鮮への関与を強めていきます。
明治9年不平等条約(日朝修好条規)を結んで朝鮮に開国を強いたり、日清戦争を経て下関条約で清国に朝鮮独立を認めさせたり、さらには同じく朝鮮に対する野望を持つロシアとの日露戦争に勝利し、遂には朝鮮半島に対する支配的な地位を確実なものとします。

1910年、日本は日韓併合条約により韓国を併合、統治のために朝鮮総督府を置きました。ちなみに、初代総督には寺内正毅が就いています。
(なお、当初の目的であった「緩衝地帯として」の役割は途中で忘れ去られ、併合後は「朝鮮を取られないよう」にさらなる膨張路線をとったりも。本末転倒は日本の伝統芸なのです。)

朝鮮の統治は、原則として全て総督に対し天皇から委任されます。
ただし、官制の制定、官吏の任免については天皇の親裁、すなわち国務大臣の輔弼によるものとなっていました。また、予算は帝国議会の協賛により決定されます。
これら以外は総督の権限とされ、行政権・立法権を併せ持つ総督の権限は絶大なものでした。

ちなみに、戦時下の日本語強制・創氏改名皇民化運動など愚劣な方策が行われていますが、こういった日本化施策を行った割には、日本語を解するものは昭和20年(1945年)においても35%に留まりました。内地と違って義務教育制度をとってないことから就学率が低かったことも原因でしょうか。

植民地統治の中央機関

さて、戦前日本における植民地の行政機関は、前述の通り、一般的に各植民地の植民地官庁に天皇から行政を委任する、という形式をとっていました。
日本中央政府は、植民地行政についてはその大綱を監督するのみとなっており、このため、植民地統治のための中央機関は強力とは言いがたく、まあ、端的にいって各植民地官庁から舐められていました。
昭和4年に拓務省が新設され、拓務大臣は朝鮮総督府台湾総督府、関東庁、樺太庁南洋庁に関する事務を統理*3することとなりましたが、日本では中央において植民地政策を立案推進するところは存在せず、中央政府の監督権・指示権が明確になるのも、かなり後のことになります。

 

 

*1:1943年に「内地」に編入されました。

*2:この「人権」は、実際上、法律によってかなり制限されることとなりました…。

*3:事務の統理とは、必ずしも指揮監督を意味するわけではなく、例えば朝鮮については指揮監督を行えていません。