Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】委任統治区域 南洋群島【植民地】

前回記事にて、大日本帝国の植民地について書きました。

oplern.hatenablog.com

戦前日本の植民地というと、大抵、朝鮮半島や台湾、場合によっては満洲国が取り上げられることが多いです(たぶん)。
しかし、同様に日本の支配下にあった中部太平洋の島々、南洋群島についてはあまり取り上げられることがありません(たぶん)。

南洋群島は、グアムを除いたマリアナ、カロリン、マーシャルという3つの諸島からなり、その範囲は東経130度から175度、北緯22度から0度に及びます。ミクロネシアと呼ばれる地域の大部分を占めており、日本統治時代の記録によると島の数は623でした。

太平洋戦争における戦いや拠点としては登場するのですが、南洋群島自体について取り上げられることあまり多くありません。
しかしながら、日本の南洋群島獲得は日米双方の戦略に大きな影響を与えています。太平洋戦争はこれらの島々を抜きに語ることはできないのです…というわけで、今回は南洋群島について。
ちなみに何回かに分けて書くことになりそうです。

ドイツから日本へ

まずは、南洋群島が「日本領」となる経緯を。その起点は第一次大戦までさかのぼれます。

第一次大戦当時、日本とイギリスは日英同盟を結んでおり、ドイツ・オーストリアとの戦争に突入したイギリスからの要請もあって、日本は連合国側で参戦することとなります。
1914年8月23日、日本はドイツに宣戦、山東半島の付け根にあるドイツの租借地、青島の攻略に取り掛かりました。
青島にはドイツ太平洋艦隊がいたのですが、日本の青島攻略の前に脱出しており、日本は青島攻略とは別に、ドイツ太平洋艦隊の捜索にも当たることとなります。

当時、ドイツはアジア・太平洋に多数の権益、領土を保有していたのですが、ビスマルク諸島やマーシャル諸島などの南洋群島はその一部でした。
(日本が参戦した背景には、これら権益の獲得があります。)

ドイツ太平洋艦隊の捜索にあたった、日本第一南遣支隊、第二南遣支隊は、捜索途上で南洋群島の主要な島々に上陸、占領を行っていきました。
戦後、南洋群島ヴェルサイユ条約で日本による委任統治が認められることになります。

なお、余談となりますが、青島攻略にも成功した日本は、調子に乗って山東省の旧ドイツ利権の譲渡を中国に迫り承認させます(対華21か条要求)。しかし、強引な措置に対して各国から非難が集中、1922年のワシントン会議山東権益は放棄することとなりました。

南洋群島の統治

南洋群島の統治は、国際連盟の委任によるものとされ、C式委任統治区域となりました。
C式委任統治とは、土着人民の利益のために一定の保障を与えることを要するもので、また受任国領土の構成部分としてその国法の下に施政を行うべきものです。
受任国の単純な領土となるわけではありませんが、領土に近いものであり、実質的に領土再分割の方法の一つとなりました。

ちなみに、A式委任統治はほとんど自立しうる程度に発達している地方に対して行うもの、B式委任統治は独立国として仮承認を受けうるまでには発達していない地方に対して行われるものとされています。

日米戦争への影響

さて、日本の委任統治領となった南洋群島ですが、これらの存在は日米海軍双方の戦略に大きな影響を与えることとなりました。

日本海軍は対米戦における「漸減(ぜんげん)作戦」構想(主力部隊同士の決戦の前に、補助艦艇部隊の夜襲などで敵主力部隊の戦力を削ろうというもの)において、従来の巡洋艦駆逐艦による「漸減」に代わって南洋群島に配備した基地航空隊を用いる案が浮上することとなります。また、艦隊泊地に適したトラック諸島を手に入れたことから艦隊決戦の想定海面が大きく東に移動しました。

アメリカの対日戦略においては、南洋群島が実質日本領となったことから、これらの島々を攻撃・占領して使用するとことが可能となり、島伝いに日本本土へ侵攻する方法がとれるようになります。
(ドイツ領のままだった場合は、原則ドイツの同意がなければ使用できません。)