Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】南洋群島の産業【委任統治区域】

今回も大日本帝国委任統治領、南洋群島南洋諸島)の記事です。
なお、今までの南洋群島に関する記事はこちら。

【大日本帝国】委任統治区域 南洋群島【植民地】 - Man On a Mission

【大日本帝国】南洋群島の統治【委任統治区域】 - Man On a Mission

【大日本帝国】南洋群島の司法と教育【委任統治区域】 - Man On a Mission

今回は簡単ながら、大日本帝国による委任統治時代の南洋群島の産業について触れます。

南洋群島の主産業

南洋群島の産業は第一次産業が中心でした。
主な第一次産業として、コプラ生産、製糖、水産が挙げられます。

コプラ生産

コプラというのはココヤシの果肉を乾燥させたもので、圧搾することでヤシ油を採取できます。
19世紀後半、捕鯨業の衰退にともない鯨油の代替物としてヤシ油の商品価値が高まってきており、マーガリンや石鹸、ろうそくなどの原料として取引されることとなりました。
第一次世界大戦で日本がミクロネシアを占領した後は、コプラの取引は南洋貿易株式会社(通称「南貿」)が独占することとなります。

製糖業

製糖業については、大正10年(1921年)に西村拓殖と南洋殖産が統合して設立された南洋興発株式会社(通称「南興」)が中心となりました。
南興の設立以前にも、サイパン島にてサトウキビ栽培と製糖事業が試みられていたのですが、西村拓殖と南洋殖産の二社によるこの事業は計画性や専門知識の欠如から失敗します。
サトウキビ栽培に従事した1000名近くの移住者の困窮などが問題となりますが、これを受けて、台湾での製糖事業に関わってきた松江春次を迎え、また南洋庁の後押しも得て西村拓殖と南洋殖産を整理統合する形で南興が誕生しました。
南興は移住者を吸収して数年で製糖事業を軌道に乗せることに成功、南洋群島の主力産業に成長します。
昭和10年(1935年)には、南洋庁租税収入の大半を製糖産業による出港税が占めることとなりました。

水産業

水産業ではカツオ漁が中心となりました。
(ちなみに、1920年代終わりに沖縄県より漁民の招致が開始されています。)
1930年代前半にはカツオが全漁獲高中8割以上を占め、鰹節製造業者も増加、生産高は1300トンに達しました。
南洋産の鰹節は、東京市場の市価を左右するまでになります。

他にはパラオの白蝶貝採取が知られています。
パラオを基地にしたダイバーたちが、豪州北部沿岸のアラフラ海でボタン材料となる白蝶貝の採取に従事し、パラオの繁栄に大きな役割を果たしました。
昭和13年(1938年)には、全世界の需要量の半ばを超える4300トンの白蝶貝を水揚げしています。
なお、白蝶貝採取では減圧症*1で命を落としたダイバーも数しれず、海軍の永野修身ぐったり大将による題字を刻した慰霊碑が建立されています。

その他の産業

その他の産業としては、パラオペリリュー島アンガウル島)のリン鉱石採取や、南拓鳳梨(なんたくほうり)のパイナップル缶詰なんかがあります。

なお、商業に関しては、規模は小さいものの早くから開けており、サイパン島のガラパンの町が大きく発展しました。
各種商店や百貨店、映画館、新聞社、果ては料亭や遊郭などもありました。
ちなみに、昭和13年(1938年)6月末の時点で、ガラパンの人口は1万2707人だったそうです。「南洋の東京」と呼ばれることも。
パラオコロール島もガラパンに匹敵する繁栄を見せており、こちらは昭和14年(1939年)時点で人口1万4218人、ガラパン同様に百貨店や映画館、料亭など建ち並び、さらには南洋群島で唯一の西洋式ホテルである南洋ホテルもありました。

 

 

*1:潜水中に高圧空気を呼吸することで人体に溶け込んだ窒素が、浮上して圧力から開放されることにより気泡となって血管に詰まることで引き起こされる障害。