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【大日本帝国】稀代の悪法 治安維持法とは【最低伝説】

ここ最近の記事で、現代および戦前における警察制度の記事を書いてきました。

【現代日本】日本の警察制度【組織・階級】 - Man On a Mission

【大日本帝国】戦前日本の警察制度【組織・階級】 - Man On a Mission

【大日本帝国】高等警察とは【政治警察】 - Man On a Mission

で、一連の警察制度の記事の最後は、悪名高き「特高」こと特別高等警察についてとなっております。

oplern.hatenablog.com

上記記事で触れた通り、特高警察の「活躍」は、当初は治安警察法に、後には「稀代の悪法」と呼ばれる治安維持法に拠ることとなりました。
さて、それを踏まえて今回記事は、「特高警察と表裏一体」といわれることもある治安維持法についてです。

当ブログでは、割とこの手の解説記事が多いのですが、今回は新たな試みとして、簡単な説明のものと、もう少し踏み入った説明の2章構成にしてみました。
それなりの興味の方は第1章だけを、もう少し知りたい方は続けて第2章もどうぞ。

第1章 治安維持法を簡単に

治安維持法は,戦前日本の政治・社会全般にわたって大きな影響を及ぼした法律です。詳細は知らなくても、社会運動などの弾圧に利用された法律、というイメージは多くの方が持っていると思います。
学校の授業でも触れられますが、その際にはよく普通選挙法と抱き合わせの「アメとムチ」と教えられたりしますね。
(実のところ、「アメとムチ」説以外にもいくつかの見方があります。)

さて、治安維持法の「弾圧に利用された」というイメージですが、実は以外な事実が……なんてこともなく、大体その通りだったりします。

治安維持法が公布されたのは1925年(大正14年)4月22日です。「アメ」である男子普通選挙法に先がけること13日前でした。

制定当初は、共産主義者共産党員)の活動を取り締まることが主目的でしたが、後には、共産主義の支持者や自由主義者労働組合・農民組合の活動、プロレタリア文化運動参加者にも適用されるようになり、果ては同法による宗教団体の弾圧までも行われることとなります。

制定時の治安維持法

治安維持法は1928年(昭和3年)、1941年(昭和16年)と2回にわたって改正されているのですが、適用範囲がむやみに拡大したり、罰則が強化されたり(死刑もあり)、刑事手続が特例化されて取り締る側に有利になったりと、ロクでもないものばかりで、まあ、2回改悪されたという方が、実情に近いでしょう。
この二度の改正を考えると、治安維持法は制定時、改悪1回め、改悪2回めの3段階に分けて考えることができます。

制定時の治安維持法は、共産主義者無政府主義者の取り締まり(というと聞こえがいいですが、要は弾圧)を目的としていました。
第1条を例に挙げると、「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知って之に加入したものは十年以下の懲役又は禁錮に処す」という内容になっています。
第1条は、簡単に言うと共産党などの結社を組織したりそれに加入した者に罰則(10年以下の懲役・禁錮刑)を定めているわけですが、この他にも共産主義やら無政府主義やらの実現に向けた協議(2条)、そのための煽動(3条)、利益供与(5条)なんかについて処罰を規定していました。

ちなみに、前回でも触れましたが、この初期の治安維持法下では京大学連事件(京都帝国大学同志社大学などでマルクス主義の研究サークルが弾圧・粛清された事件)や三・一五事件(3月15日の明け方に徳田球一野坂参三、志賀義雄、春日正一ら全国各地のブラックリスト上の人物を急襲、1568名を検挙した事件)が起こっています。

1回めの改悪

その後、治安維持法は1928年(昭和3年)に改正されますが、この際には「国体を変革」するために「結社を組織した者」または「加入した者」への刑罰が重くなります。
従来、「10年以下の懲役又は禁錮」だったものが、「死刑・無期懲役・5年以上の懲役又は禁錮」となりました。

また、新たに「結社の目的のためにする行為をした者」に対して罰則を科すことと定められました。
これは、取り締まり側の主観で「結社の目的遂行の役に立っている」と判定されれば、本人の意図に関係なく罰することが可能(目的遂行罪)、という悪夢のような規定で、結社のメンバーでなくとも適用されます。
これにより、治安維持法の適用範囲は一挙に拡大。労働組合の活動、文化運動なんかも対象となります。1935年には宗教団体の大本教が検挙されたりも。さらには、弁護士の治安維持法被告のための活動まで処罰対象となりました。
なに、このディストピア

2回めの改悪

太平洋戦争開戦を目前に控えた1941年3月、現場からの要望を踏まえて治安維持法は大幅に改正されることとなります。
再び罰則が強化された他、刑事手続の特例化や予防拘禁制度が盛り込まれました。

刑事手続の特例化というのは、従来は刑事訴訟法によっていたのを、治安維持法については特別扱いをすることにしたものです。
具体的には、本来は判事が行なう被疑者の召喚勾引等の権限を検事の権限としたこと、三審制を二審制(控訴を認めず上告のみとした)にしてしまったことが挙げられます。

次に、予防拘禁制度ですが、これは刑の執行が終わり釈放するときに「再犯のおそれがある」と判断されるものを引き続き拘禁できる制度です。
拘禁期間は2年とされていましたが、必要があれば更新できることになっていましたので、事実上は無期限に拘禁可能でした。

他にも、「結社」とまでは言えないような集団についても処罰対象とするなど、ディストピア度は際限無く高まっていくのですが、皮肉なことに太平洋戦争突入後は検挙者数が減少しています。

治安維持法の廃止

猛威を振るった治安維持法は、太平洋戦争敗戦後の1945年10月15日に廃止となります。
これは、10月4日に連合国軍最高司令官総司令部GHQ)より出された人権指令によるものです。
残念ながら、日本自身によって同法の息の根を止めることはできず、その終焉は占領者の手によってもたらされたわけです。
(ちなみに、当時の東久邇宮内閣は言論と結社の自由化を宣言したものの、治安維持法は温存され、政治犯の釈放も進んでいませんでした。)

第2章 治安維持法を小難しく

さて、第1章では治安維持法について簡単な説明(のつもり)をしましたが、第2章ではもう少し踏み込んだ話を。
「小難しく」と書きつつ、実のところそれほど小難しい内容でもないと思うのですが、私の能力の制約上、結果的に小難しくなるかもしれません。
努力はしますが、わかりにくいところがあったらスルーで。

治安維持法前史

治安維持法が制定される前、政治運動・社会運動の取り締まりは内務省・警察が主体となって、治安警察法の結社禁止や新聞紙法の発売頒布禁止などの行政処分を用いて行われていました。
しかし、1921年(大正10年)頃、思想団体の宣伝が活発化し、また、コミン★テルンコミンテルンから邦人への資金供与が発覚したことを受けて、内務省と司法省が社会運動の取締法起草に着手することとなります。

1922年(大正11年)2月、政友会の高橋是清内閣は、過激社会運動取締法案を議会提出に提出しました。
この法案は、ロシアに拠点を置くコミンテルンと活動家の連絡を想定して、「無政府主義共産主義その他朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)」の宣伝を主に取り締るものでしたが、「朝憲紊乱」の文言が曖昧だとか、「宣伝」取り締まりは言論の自由を脅かす、という批判を受け廃案となります。

その後、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に際して、緊急勅令で治安維持令が制定されました。
(緊急勅令って何?という方はこちらをどうぞ。)
治安維持令は、朝鮮人虐殺を引き起こした流言飛語を止めることを目的としていましたが、司法官僚らの手により、社会主義者を想定して扇動や流布を取り締る条項が盛り込まれています。また、イギリスの立法をもとに「安寧秩序紊乱」などの目的を要件とする目的罪を導入し、これは後に治安維持法に継承されることとなりました。
(ただし、治安維持令については、司法省は適用を極力控えています。)

同年末、摂政宮(昭和天皇)狙撃事件(虎ノ門事件)が発生、司法省は無政府主義者への警戒を高めることとなります。
この事件と前述の治安維持令は、司法省が治安維持法案を起草する契機となりました。

治安維持法の成立要因

さて、治安維持法は1925年に成立しましたが、その成立要因については様々な説明がなされています。
代表的なものを二つ挙げると、まずは学校でも教えられている男子普通選挙治安維持法を抱き合わせたという「アメとムチ」説。
もう一つは、ソ連との国交樹立を契機として、コミンテルンの思想宣伝を警戒したとする「日ソ国交樹立」説です。
(他にも奥平康弘氏による20年台はじめから継続して検討されてきた治安政策の成果が結実したもの、という説なんかもあります。)

中澤俊輔氏は、加藤高明内閣(護憲三派内閣)の存在が「治安維持法が1925年に成立した最大の要因」としており、これは憲政会の若槻礼次郞が内務大臣を、政友会の横田千之助(のち小川平吉)が司法大臣を務め、内務省と司法省、憲政会と政友会の四者間調整がなされたことを重視したもののようです。

まあ、結局何がいいたいかというと、学校で教えられた「アメとムチ」というのは一つの説に過ぎず決定的なものではない、ということです。

制定時の治安維持法

第1章で、治安維持法は制定時、改悪1回め、改悪2回めの3段階に分けて考えることができる、と述べましたが、それぞれの段階について少し補足しておきます。

治安維持法第1条は「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知って之に加入したものは十年以下の懲役又は禁錮に処す」という内容ですが、この国体だの私有財産制度だのといった文言について。

まず「国体を変革」ですが、これは「天皇が治める日本」という国家形態(国体)を変えようとすることです*1。例えば、君主制の撤廃や共和制の実現、無政府主義などが「国体の変革」に相当します。

次に「私有財産制度の否認」ですが、これは資本主義経済体制(私有財産制度)の否定、要は共産主義のことを指しています。
これらを目的として継続的に活動する団体(結社)を組織した者、またはその結社に加入した者を罰すると定めたのが、最初の治安維持法の姿なわけです。

1回めの改悪

第1章で述べた通り、1928年(昭和3年)の1回めの改正では、刑罰が重くなったり、「結社の目的のためにする行為をした者」を罰することができる(目的遂行罪)ようになりました。
刑罰が重くなったのもさることながら、目的遂行罪導入は後に拡大適用の原因となり、大量の検挙者を出すこととなります。

この二つの変更点は極めて重大な問題でしたが、もうひとつの問題点として、この改正が前議会で成立しなかったにも関わらず緊急勅令により強行改正された、というものがあります。
この辺の経緯は緊急勅令についての記事で書きましたので、そちらをご覧ください。

なお、この時の改正について、批判は刑罰の引き上げと緊急勅令の妥当性に集中し、後に猛威を振るうこととなる目的遂行罪の重大性に気づいていたのはごく一部だったようです。

2回めの改悪

1941年3月(昭和16年)には2回めの改正が行われます。前回の改正とは違いこちらは全面改正となっており、新治安維持法は従来の7条から65条にものぼるものとなりました。
第1章で述べた通り、この改正により罰則が強化されてますが、禁錮を減らし懲役のみとする項が多くなっています。

また、「現場からの要望を踏まえて」改正された、といいましたが、例えば刑事手続の特例化なんかはその典型です。
実は、改正前から刑事訴訟法によらない違法行為がおこなわれていたりします。当時は警察犯処罰令や行政執行法の誤用、という体で違法なことを行っていたわけですが、改正により合法となりました。

治安維持法違反事件を扱う組織

治安維持法といえば特高こと特別高等警察…と思いがちなのですが、他にも検事局や憲兵隊も治安維持法違反事件を扱います。
検事局はあたり前としても、憲兵隊の動きも無視できないものがあり、例えば昭和3年4月〜8月に現役軍人71人を治安維持法違反者として取り調べ、軍法会議で37人が有罪とされています。軍属軍職工についても30人取り調べ検事局に送ったりしてます。

第3章 治安維持法の被害者

冒頭で2章構成とかいっておきながら、そういや被害者のことを書いてないなと気づいて、第3章として少し触れてみることにしました。
四天王なのに5人いるとか、三銃士なのに4人いるとか、モンティパイソンのスペイン宗教裁判みたいなものだと思って見逃してください。ダルタニャンは三銃士じゃねえんだよとかお叱りを受けそうですがそれも見逃してください。

治安維持法の検挙者数

まずは、治安維持法による検挙者数から。
同法による検挙者総数は、敗戦直前の1945年5月末までの司法省統計では6万8332人。
そのうち、送検者1万7600人、起訴処分約6600人、特高による拷問虐殺69人、拷問・虐待による獄死249人、病死その他による獄死1503人、「保護観察」処分5337人(1944年6月まで)、「予防拘禁」処分65人(1945年5月まで)となっております。

なお、治安維持法による検挙者数や起訴された者の数については、統計によってかなりの食い違いがありますので、ご注意を。

ニホン伝第3章16節曰く 国民(てめえ)をぶちのめしたぜ

節タイトルはストーン・コールド・スティーブ・オースチンさんのセリフのパクりオマージュです。
さておき、検挙された人たちがどんな目にあったかについて、いくつか例を挙げておきます。

治安維持法事件では、警察による拷問が日常化していました。
労働農民党の山本宣治が議会で挙げた例。

「鉛筆を指の間に挟み、或は此三角形の柱の上に坐らせて、そうして其膝の上に石を置く、或は足を縛って、逆まに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流して、そうして悶絶する迄打っちゃらかして置く、或は頭に座布団を縛り付けて、竹刀で殴る」

これは、北海道函館市の事例などを挙げたもののようです。
なお、この際答弁にたった内務次官は「あのような事実が我が日本の警察行政の範囲内に於てあるかどうかと云うことに就いては、断じて之れ無しと申上げて宜しかろうと思っている。」などと某官房長官みたいな感じで白を切ったとか。

特高による拷問を受け虐殺された小林多喜二も、小樽での拷問を小説「一九二八年三月十五日」で暴露しています。
ちなみに、同書は「国禁の書」となりました。

小林は後に特高による拷問で殺されたわけですが、それに先立つ1933年2月11日頃(推定)、社会運動家平和運動家の西田信春(にしだ のぶはる)が福岡の警察署内で「急死」しています。「急死」というのは特高警察による隠蔽であり、実際は拷問による虐殺でした。
遺体は九州帝国大学法医学教室で解剖され、鑑定書では「氏名不詳」の「病死」(特異体質の持ち主が精神の興奮等精神神経の刺激により心臓機能の停止を来して「急死」したもの)とされ、警察・検察の「権力機関内の処置」としてその「死を永久に闇に葬るつもり」だったようです。
(西田の死の真相が知られるようになったのは1957年。)
西田の屍体解剖にあたった医師の記憶によれば、特高課長とおぼしき人物が地裁検事局の次席検事に「職務熱心のあまりについこないになりまして」と弁明していたとか。

日本基督教団が受けた被害についても少々。
1942年6月26日、日本基督教団第6部、第9部の96名の牧師が治安維持法違反の嫌疑で検挙されています。
その後も逮捕者が増えて検挙者総勢134名に達し、そのうち75名が治安維持法で起訴されました。
(ちなみに、起訴されなかった残りの59名は起訴猶予になっています。)
起訴された3分の1程度が実刑判決を受け、戦時下の食糧事情悪化もあって衰弱者が出たり裁判中に重病を患ったり、さらには、暴行を加えられて獄死した人も出ました。
教会自体も解散させられ、牧師の私物や教会の書類・書籍なども証拠物件として持ち去られました。敗戦後に至っても未だ戻されていないのだとか。

以上、被害状況をいくつか挙げてきましたが、ついでなので、横浜事件における神奈川県特高警察のキメ台詞をいくつか載せときます。

  • 「神奈川県特高警察は警視庁とは違ふんだ。貴様のやうな痩せこけたインテリは何人も殺してゐるのだ」
  • 「俺達は貴様を殺したところで責任はないのだからな。」
  • 「日本一の神奈川県特高のテロを満喫させてやるからな」

最後に

さて、思ったより長くなってしまいましたが、まだまだ書き足りない点も多かったりします。
なので、そのうちまた治安維持法について書くかもしれません。

最後に治安維持法について私の所感など。
治安維持法は体制への批判や反対運動への抑圧を図ったわけですが、正直、それを行なうことによる利益というのが存在したのかは非常に疑問です。
二度の改正により、その適用範囲が際限なく拡大していくわけですが、正直、手当たりしだいに検挙していってるだけで、「国益」(最近、この言葉には悪いイメージしか持てなくなりましたが)に貢献しているかというとそんなことは全くなく、悪影響しか与えてないように見えます。
まあ、法には権力の行使を規制するという側面がありますが、そういった規制を次々に剥ぎ取っていった治安維持法が濫用されて社会に悪影響を与えるのは当然の帰結なのかもしれません。

ついでの一言。戦後になっても治安立法制定の試みが脈々と続いてきたところを見ると、治安維持法は国民にとっては悪夢でも、権力者にとっては限りなく魅力的なものだったりするのでしょうね。

 

 

*1:実際には「国体」という言葉の意味についても関係者間でいろんな思惑や解釈が入り乱れて、制定時に紛糾してたりしますが、その辺はとりあえず置いときます。