Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】植民地における治安維持法【最低伝説】

前回、簡単ながら大日本帝国の植民地法制について触れました。

oplern.hatenablog.com

植民地は「外地」と呼称され、当然に日本国法律は適用されず、本国とは別個の法域をなす地域とされていました。
外地では、特に植民地に施行する目的をもって制定した法律と、勅令によって植民地に施行することを定めた法律が適用されるのでしたね。

で、最近、治安維持法についての記事を書いてきたこともありますし、ついでなので、少し植民地での治安維持法について触れておくことにします。
なお、治安維持法についての過去記事はこちら。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

治安維持法自体について知りたい方は、上記をご参照ください。

植民地でも治安維持法

以前の記事でも触れてるのですが、治安維持法は日本本土のみならず、朝鮮・台湾・樺太といった植民地、租借地である関東州、委任統治領である南洋群島においても施行されています。
それらの地域では、民族解放・民族独立を求める運動が弾圧対象となり、それらの抑圧取り締まりに猛威を振るいました。

なお、治安維持法はその当初から植民地での施行を前提として策定されたものと考えられます。
1924年内務省が作成したとされる「治安維持法案審議材料」では、当初案が取り締まり対象とした「朝憲紊乱」の「統治権範囲ヲ制限スル事項」には、「植民地独立企画」が含まれるとされていました。
また、1925年の貴族院治安維持法案特別委員会では、植民地独立問題と治安維持法の関係が取り上げられ、その質疑において、司法省刑事局長および司法大臣が植民地独立の企図も取り締まり対象になると答弁しています。

1925年、治安維持法は4月25日公布、5月12日に施行されます。
植民地などについては、5月8日勅令第一七五号「治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件」、勅令第一七六号「関東州及南洋群島ニ於テハ治安維持ニ関シ治安維持法ニ依ルノ件」が出され、日本本土(内地)と同じく5月12日に施行されました。

朝鮮で治安維持法

植民地で施行された治安維持法として、朝鮮の事例を少し挙げておきます。

治安維持法が施行されて1ヶ月後の6月13日、高等法院検事長は各検事局検事正あてに通牒「治安維持法ノ適用ニ関スル件」を発しました。
いわく、「朝鮮ヲ独立セシムルコトヲ目的トシ」て結社を組織したり、その内実を知りつつ加入したり、実行のために協議したり、実行を扇動したりするものには「治安維持法ヲ適用スヘキモノ」と解釈するそうです。
施行当初から、朝鮮独立を目指す結社に対して治安維持法を適用して取り締ることを指示していたわけです。

朝鮮での治安維持法運用は、全般的に日本本土より厳しい処罰が行われました。
例えば日本本土では死刑適用がなかった(まあ、拷問による虐殺死はありましたが)のに対し、朝鮮では裁判において死刑判決がくだされたりしてます。
(ちなみに、拷問による獄死などが珍しくなかった点は日本本土と同じです。例を挙げると、朝鮮共産党事件の検挙者のうち朴純秉が捜査段階で拷問により殺害され、朴吉陽、白光欽も裁判中に獄死しています。)

治安維持法は1941年(昭和16年)の改正で、事実上無期限に拘禁できる「予防拘禁」制度が導入されましたが、この拘禁者を収容する予防拘禁所は日本本土よりも朝鮮の方が大規模でした。
(ついでにいうと、実は日本本土よりも朝鮮の方が早く予防拘禁所を開設してたりします。)

ちなみに、朝鮮では普通選挙法が実施されておらず、治安維持法だけ施行するのは「差別的取扱ニシテ矛盾モ亦甚シ」という批判も上がってたりします。

満洲でも治安維持法

さて、上記に挙げた地域以外に、日本の傀儡国家であった満洲国でも治安維持法が施行されています。
満洲国では、従来、暫行懲治叛徒法と暫行懲治盗匪法が反満抗日運動弾圧のために適用されてきましたが、日米開戦後の1941年12月27日に治安維持法が施行・公布されました。

満洲国の治安維持法は、治安維持法の代名詞である「稀代の悪法」の集大成とでも言うべきもので、例えば「討伐」現場における緊急措置としての即決処分(要は射殺)がOKとされました。
他にも、一審制かつ終審制、法院設置以外の場所でも臨時開廷OK、弁護人の選任も不要、死刑は銃殺でOKといった、便宜性・機動性を最優先とした「特別治安庭」が新設されており、これでもかというほどにディストピア成分が詰め込まれています。
ちなみに、特別治安庭の検察・審判を担当するのは、すべて日本人司法官とされました。
検挙の主力は、日本の関東憲兵隊と日本人が幹部を独占する「特務警察」です。

施行から1945年8月までの3年半あまりの期間で、治安維持法により処断されたものは1万数千名、死刑の宣告と執行は2000名前後に及ぶと推測されています。