ここしばらく、特別高等警察(特高)や治安維持法についての記事を書いてきました。
特高警察は、治安維持法を拠り所に暴れまわったわけですが、治安維持法違反事件を扱う組織としては、ほかに憲兵隊がありました。
憲兵隊はよく特高警察と混同されるのですが、陸軍の兵科の一つ*1であり、特高警察とは別の組織です。
憲兵隊にも「特高課」が設けられており、しかも軍事警察の立場にとどまらず一般警察分野に大きく介入したことも混同される一因でしょうか。
1935年 列車内での一枚
…というわけで、今回は名称はよく知られているものの、その実態はあまり知られていない日本の憲兵についての記事です。
割と長くなりそうなので複数回にわけて取り上げたいと思います。
なお、今回記事は、正確には「勅令憲兵」の概要についてです。勅令憲兵の意味については後述。
(勅令憲兵でない憲兵である「軍令憲兵」についてはいずれ取りあげます。)
憲兵とは
さて、日本の憲兵の話に入る前に、一般的な「憲兵」について触れておきます。
憲兵は、軍組織内の法秩序維持をおもな任務とする兵科または軍人で、軍に関する司法・行政警察機能を担っています。
具体的な任務は、軍内部の犯罪捜査や防止、軍刑務所等の管理、軍事施設の警備、防諜、軍交通の整理などですが、これらに関しては国ごとの差異が大きく、軍隊内にとどまらず広く一般警察業務を行なういわゆる「国家憲兵」なんてのもあります。
「国家憲兵」の例としては、以前、特殊部隊GIGNの記事で取り上げたフランス国家憲兵隊なんかが挙げられるのですが、旧日本軍の憲兵も国家憲兵です。
日本の憲兵 誕生から消滅まで
憲兵隊の誕生
日本の憲兵隊が誕生したのは、1881年(明治14年)です。同年3月11日に「憲兵条例」が公布され、5月9日に憲兵隊が創設されました。なお、創設にあたっては、フランスの憲兵制度を範に採っています。
憲兵条例第一条では「憲兵は陸軍兵律の一部に位し、巡安検察の事を掌り、軍人の非違を視察し、行政警察及び司法警察の事を兼ね内務、海軍、司法の三省に兼隷して国内の安寧を掌る」ものとしています。
憲兵は軍事警察でありながら、行政警察・司法警察でもあり、その所属はそれぞれの職務遂行毎に、陸軍・海軍大臣、内務大臣、司法大臣からの指揮を受けるものとされました。
創設当初の憲兵隊は東京のみで、かつ1600名の人員を要するに過ぎませんでした。
1883年(明治16年)に大阪、1889年(明治22年)には6つの師団(前年に鎮台より改組)司令部所在地に一つずつの憲兵隊が置かれるようになりましたが、それでも人員は2100名程度に留まっています。
日清戦争後の師団増設で5000名の兵数になりますが、第一次世界大戦後の軍縮により再び兵数が減少。2000名を割るようになるものの、後には日中戦争の拡大などで増員が続けられ、終戦時には外地もふくめて3万6037名に膨れ上がります。
憲兵の役割
前述の憲兵条例第一条にある通り、創設当初の憲兵隊は、鎮台兵の取り締まり(軍事警察)と、国内安寧を企図(明治新政府に対する不平分子の鎮圧など)していました。
軍事警察権の行使では、陸軍大臣または海軍大臣の指揮を受けることになります。
(海軍大臣の指揮を受けるのは、海軍軍人を取り締る役目も持っていたためですが、海軍はこの規定は内地限りのもので戦地では適用されないとして、戦地の海軍軍人を取り締るために別の組織を作ったりしてます。)
軍事警察は、軍事司法警察と軍事行政警察に分けられ、軍事司法警察については軍人・準軍人・一般人の軍事に関係した犯罪を対象とし、軍法会議法等の手続きに従って執行されました。
軍事行政警察は、社会情勢の視察と警防・処置、在郷軍人および未入営壮丁(兵役対象ながら入営していない者)の視察調査、軍機保護、要塞軍港等に対する危害の警防等が該当します。
なお、普通警察分野については本来、内務省所属の警察が担当しますが、憲兵も内務大臣の指揮のもとに関与しうるものとされていました。
実際には、内務省に関わりなく独自に行動介入することも珍しくなかったようです。
さらには、大正末期から昭和初期にかけては無政府主義・共産主義などの政治運動、労働運動など社会運動が興隆し、憲兵隊にも特高課が設けられ、思想警察としても活動することとなります。
共産党の、軍人や軍隊への働きかけを取り締るのに、軍事警察の立場からのみでは不十分であるとして一般警察分野に介入し、以降、民間人の思想運動をも対象とするようになりました。
1933年(昭和8年)、満洲事変から始まるすったもんだの末に日本が国際連盟を脱退、非常時日本が叫ばれるようになると、防諜任務に重きがおかれるようになります。
さらに1941年(昭和16年)、太平洋戦争が勃発すると、反戦・非戦運動に弾圧を加えたり隠退蔵物資の摘発を行なうなどして、臣民の「戦意高揚・戦力増強」に努めました。
憲兵隊の終焉
さて、本土決戦を計画していた1945年(昭和20年)3月には、国内憲兵の大増員が行われています。
憲兵司令部の下、北部・東北・東部・東海・中部・中国・四国・西部・朝鮮・台湾に憲兵隊司令部を設置、その下に府県単位に地区憲兵隊を配置しました。
兵力1万4000人で、そのほか9000人の補助憲兵を置いています。
敗戦後の日本では、軍解体を目前にして、治安維持と陸軍兵力の温存を目的に憲兵隊の大増強が図られました。
憲兵司令部を軍司令部並に、憲兵隊司令部を師団司令部並の組織にし、臨時憲兵隊として11万人の一般歩兵部隊を編入します。
しかし、当然というかやっぱりというか、こういうセコいやり口が連合国に認められるわけもなく、1945年9月から10月にかけて憲兵隊は解隊され、消滅とあいなりました。
ちなみに、このとき急遽憲兵隊に編入されたものは、その後、憲兵経験者として連合国の厳しい監視を受けることとなり、ひどく迷惑したのだとか。
勅令憲兵と軍令憲兵
さて、憲兵、憲兵と何の気無しに連呼してきましたが、冒頭で書いた通り、今回扱った憲兵は「勅令憲兵」のことを指しています。
日本軍の憲兵は「勅令憲兵」と「軍令憲兵」に区分できるのですが、「勅令憲兵」は勅令たる憲兵条例に基づくもので陸軍大臣に属します。これに対して「軍令憲兵」は、軍令たる作戦要務令や野戦憲兵隊勤務令に服しており、戦地に派遣されて軍司令官の管轄下で活動しました。
軍令憲兵についてはそのうち取りあげる予定ですが、勅令憲兵とは使命を異にするところがあり、作戦地の軍の安寧保全や敵諜報やゲリラ部隊の排除、敵性分子の検挙弾圧のほかに、スパイ行為や暗殺テロなども行っています。
最後に
日本の憲兵について、初回ということで勅令憲兵についてのあらましを書いてみました。
次回以降は、憲兵隊の組織構成や軍装、また憲兵になる方法など書いていきます。
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
戦時用語の基礎知識
事典 昭和戦前期の日本―制度と実態