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システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】軍令憲兵とは【戦地の憲兵】

ここしばらく日本軍の憲兵についての記事を書いています。
今回記事は、前々から書くといっていた軍令憲兵について。

なお、日本軍憲兵についての過去記事はこちら。

【大日本帝国の憲兵】憲兵とは【勅令憲兵】 - Man On a Mission

【大日本帝国】日本の憲兵隊組織【勅令憲兵】 - Man On a Mission

【大日本帝国】憲兵になるには【陸軍憲兵学校】 - Man On a Mission

【大日本帝国】補助憲兵・憲兵補・憲補・憲佐【憲兵】 - Man On a Mission

軍令憲兵

勅令憲兵と軍令憲兵

過去記事でも触れていますが、まずは「勅令憲兵」と「軍令憲兵」について、おさらいしておきましょう。

日本軍の憲兵は「勅令憲兵」と「軍令憲兵」に区分できます。
勅令憲兵は国内において憲兵条例に服して活動し、軍人・軍属あるいは一般人の軍事に関係した犯罪の取締りや、要塞・軍港などの施設警備、社会情勢の視察と警防・処置などを行います。
これに対し、戦地の野戦軍直属の憲兵隊は「軍令憲兵」といい、こちらは軍令(作戦要務令や野戦憲兵隊勤務令)に服していました。

軍令憲兵の任務と「活躍」

「軍令憲兵」は、戦地に派遣されて作戦司令官の指揮下で活動しました。作戦要務令や野戦憲兵隊勤務令という軍令に服して活動するので軍令憲兵と称しましたが、野戦憲兵とか外地憲兵とも呼ばれています。
軍令憲兵は、勅令憲兵と同様に軍事警察として活動しますが、他にも、作戦要務令に示される憲兵任務として、軍機保護、間諜の検索、敵の宣伝および謀略の警防、治安上必要な情報の収集、通信および言論機関の検閲取締り、敵意を有する住民の抑圧、非違および犯則の取締り、酒保および用達商人等従属者の監視、旅舎・郵便局・停車場の監視などがありました。ついでにいうと、これらの任務達成のため、スパイ行為や暗殺テロなども行っています。

こうした任務は、植民地や占領地において必然的に独立運動や「抗日運動」の取締り・弾圧としてあらわれることとなりました。日本憲兵はアジア各地で恐れられ、日本語読みでそのまま「ケンペイ」という言葉が通じるほどだったといいます。
日本軍憲兵は、(他国の一般的な憲兵とは異なり)軍事警察以上の権限が与えられ、行政・司法警察としても「活躍」したことから住民と接することが多く、また行き過ぎた行為が頻発したこともあって、現地住民の恨みを買うことがよくありました。
「行き過ぎた行為」の典型例は住民に対する拷問であり、拷問により死に至らしめることもままあったようです。
(ちなみに、一人前の憲兵になるために拷問の手ほどきを受けこれには強い衝撃を覚えた、と元憲兵が証言していたりします。)

上記のような活動の結果、敗戦後はアジア各地で行われた対日戦犯裁判で、憲兵に対する告訴が多発することとなりました。憲兵は比較的移動が少なく住民との接触機会が多かったことから証拠・証言も比較的揃っており、他の軍人と比較しても、重い判決が下されることが多かったようです。
例えば、中国国民政府による戦犯裁判の場合、有罪判決446人中、実に211人が憲兵でした。判決理由のほとんどは虐待・拷問によるもので、これにより死に至らしめた場合は死刑または無期懲役となっています。ちなみに、死刑判決は139人で内66人が憲兵、無期刑判決は81人で内31人が憲兵でした。
中国では、住民からの憲兵に対する告訴が多かったのですが、これとは別に、国民政府が憲兵に対する悪評を利用して、憲兵を抑留することで民衆の対戦犯感情の緩和を図ったことも憲兵の有罪判決が多かった原因として指摘されています。
なお、有罪判決は下士官および兵に集中しがちで、責任者である上官に対してはあまり追求されないという問題がありました。
(これは、BC級裁判全般にいえることではありますが。)
また、やはり誤審と思われる例も散見され、中には別人が行った拷問・拷問致死について、同姓であったために誤認され起訴・有罪となったらしいケースもあったりします。

憲兵による諜報活動

軍令憲兵は、諜報任務に就くこともありましたので、そちらの事例も少し。

ビルマでは、1943年3月27日にビルマ方面軍の創設に伴いビルマ憲兵隊司令部が設置されています。
1944年3月にインパール作戦が企図されると、ビルマ憲兵隊はさらなる増員が図られてますが、これら憲兵は警察活動*1のみならず、情報収集や宣撫工作の任にも当たりました。
具体例としては、少数民族の部落に潜入して宣撫および諜報工作を行い、英印軍の情報入手などに努めています。
シッタン作戦においては、敢威兵団(独立混成第105旅団)からの下命でシッタン河付近の敵状収集を行ったりも。

最後に

さて、延々5回にわたって日本軍憲兵についての記事を書いてきましたが、これにてひとまずは終了です。
そのうち、書きたいネタを思いついたら、また憲兵についての記事を書くかもしれません。

日本の憲兵は、その性質上、日本近代史においても割と重要な要素といえるのですが、残念なことに一次史料が少なく、結構不明な点が多かったりします。
ちなみに、一次史料が少ないのは終戦時に多くの憲兵隊関連文書が焼却処分されたから。まあ、終戦時には多くの文書が焼却されており、憲兵隊に限った話ではないのですが。
近年の公文書改ざんとか隠蔽とかを鑑みると、これは日本という国の悪しき伝統なのかもしれませんね。公文書改ざんとか、民主主義国家としてはありえない話でもたいして責任追求されないのは「由緒正しき伝統」だからだったりするんでしょうか*2

 

 

*1:実態は、弾圧とそれに伴う虐待・拷問が多いのですが…。

*2:そんな伝統、捨ててしまえ