Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #1【憲兵の拷問】

当ブログは、当初は一応IT系ブログ(情報処理試験多め)として開始しました。

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しかし、早々にネタが枯渇したため路線を変更、今や日本近代史…というか昭和初期〜太平洋戦争あたりをメイン記事とする変わり果てた姿となっています。

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扱うネタの関係上、暗い話やエグい話は避けられないのですが、これまではそれらを殊更に語ったりはしませんでした。
(時々そういった話もあがるのですが、それらをメインにもってきたりはしてませんでした。概ね。)

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しかしながら最近の風潮を見てると、戦争を「娯楽コンテンツ」として消費したり、あまりにも軽々しく軍事・戦争を扱う方が割といて、戦争で何が起こるのかよくわかってないのじゃないかと思うことが多々あります。
そんなわけで、正直あまり趣味ではないのですが、その手の話……戦争におけるイヤな話(戦争なんてイヤな話ばかりですが)をメインにした記事も書いておくことにしました*1

本日の記事は、そんな思いつきから始めることにした、戦争と軍隊にまつわるイヤな話を語る新シリーズ第一弾です。

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本シリーズは、時代・地域などにはこだわらず、とにかく戦争とか軍隊におけるイヤな話を取り上げますが、記事の性質上、書籍などからの引用が多くなると思います。

ともあれ、記念すべき?第一回は、最近、某局の朝ドラで憲兵が話題になったようですので、時流に乗って(遅ぇ)憲兵の拷問の話を取り上げてみます。
日本軍憲兵自体については、以前、延々と記事を書いてたりしますので、興味があればどうぞ。

【大日本帝国の憲兵】憲兵とは【勅令憲兵】 - Man On a Mission

【大日本帝国】日本の憲兵隊組織【勅令憲兵】 - Man On a Mission

【大日本帝国】憲兵になるには【陸軍憲兵学校】 - Man On a Mission

【大日本帝国】軍令憲兵とは【戦地の憲兵】 - Man On a Mission

なお、今までライトな感じ(?)に話を進めてきましたが、以降は延々と陰鬱な話が続きますので、ご承知おきください。
ちなみに、今までの画像は、ナポレオン~覇道進撃~10巻より。

さあ、それでは、イヤな話を始めましょう。

ある憲兵の記録

今回のイヤばなは、以下の書籍より。

本題に入る前に、まずは本の内容紹介(裏表紙より)から引用。

「日本鬼子(日本の鬼め)!」と叫んだ中国の人びとの声が今も耳を離れない。−旧満州国関東軍憲兵はそう懴悔する。東北の優秀な農村青年が憲兵となった経緯、反満抗日分子を弾圧した手段、戦後十年の抑留生活で自覚した罪。その半生を語る言葉は、強い平和への願いと深い悔悟の念に貫かれている。

 以上の通り、本書籍は日本の傀儡国家であった満洲憲兵として活動していた方の証言を記録したものです。

今回取りあげるのは、語り手である土屋氏の経験した「拷問の手ほどき」のお話。

拷問の手ほどき

憲兵教習所を出て、8ヶ月ほど補助憲兵を務めた後に正式な憲兵となった土屋氏は、1934年(昭和9年)11月、満洲国東部国境の街、平陽鎮で任につきました。
土屋氏はここで、30歳くらいの中国人の男を怪しい人物として連行します。怪しいと見た理由は、土地のものではない、というものでした。
(男は、33歳の近くの農村の農民で、名を張文達。「この街に買い物に来ただけ」だと話しています。)
当時、土屋氏には、実際の取り調べ経験がなかったため、先輩格の伍長に取り調べを頼むこととなります。

その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。憲兵歴二、三年ではなかった。ハルビン分隊所属だったのでよく知らない。土屋らが中国人を連行しておきながら戸惑っている様子を見て、「よし、オレがやる」と乗り出してきた。「お前たちも手伝え。オレが教育してやるから」。

こうして、「拷問の手ほどき」を受けることになったわけですが、その内容はどんなものかというと…

まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。

何も言わない男に対して、伍長は別の拷問に移ります。

伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい。明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。

男は、にわか仕立ての留置場にした部屋に連れて行かれ、柱に縛り付けられました。
二日目には、さらに拷問はエスカレートしていきます。

指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。
「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す、話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。狂気の世界だった。「これは何だ」。土屋は、男にとって伍長と同じ立場であるのに「この伍長は鬼だ。そうでなければ、こんなむごいことはできまい」と思った。

この時はまだ、ごく常識的ともいえる感想を抱いていた土屋氏ですが、後には、水責めを得意として、次々に容疑者を自供に追い込むこととなります。
戦争に代表される異常な環境は、たやすく人を変えてしまうのです。

拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらものませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。

3日目の拷問は水責めで終わり、4日目、なおも拷問は続きます。

四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。

5日目には、土屋氏が拷問をやらされることになります。

足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ傷めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことはむろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。
 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。

ついに伍長もあきらめ、ようやく男も釈放されるのかというと、そうはなりません。
「土地のものではない」というだけの理由で連行されてきた男の「取り調べ」は、救いようのない結末を迎えます。

「張文達、三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男をこのまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。
 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満洲国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。

最後に

さて、元憲兵の土屋氏が初めて体験した「抗日分子」への拷問を見てきました。
なんら根拠もなく連行された男が、激しい拷問を受けて半死半生となり、最後には法的な理由ではなく「伍長があきらめた」ことから取り調べが終了、「釈放するわけには」いかないとして、「処分」されることとなります。このようなケースはけして珍しいものではありませんでした。

今後も、時折、このような話を上げていく予定です(不定期連載のつもり)。自分から書いといてなんですが、こういう話は、なんか他の記事とは違うイヤな感じの疲労感が残りますね…。

 

 

*1:まあ、かつての反戦平和教育は、そういったエグい話に偏りすぎて(感情面に偏りすぎて)失敗しているようにも思えるのですが、それでも、やっぱり何が起こるかは知っておく必要があります。個人的には、知識や理屈の面も併せて教えた方がよかったように思えますが、とはいえ、それで今の流れが防げたかどうかはわかりませんね…。ついでに余計なことを言わせてもらうと、日本はそもそも民主主義の理解も曖昧な人が多いように思います。