Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】日本海軍 歴代元帥一覧【元帥海軍大将】

前回の続き。
前回記事では日本陸軍の元帥一覧を掲載しました。今回は海軍です。

oplern.hatenablog.com

なお、大日本帝国の「元帥」がどういったものであるかは、こちらの記事をご覧ください。

oplern.hatenablog.com

大日本帝国 元帥海軍大将 一覧

前回同様、氏名、ふりがな、親補年月日、死亡年月日を載せてます。
ただし、氏名については別の読み方がある元帥もいますので、ご注意を。

氏名 ふりがな 親補年月日 死亡年月日
西郷 従道 さいごう じゅうどう 明治31.1.20 明治35.7.18
伊東 祐亨 いとう ゆうこう 明治39.1.31 大正3.1.16
井上 良馨 いのうえ よしか 明治44.10.31 昭和4.3.22
東郷 平八郎 とうごう へいはちろう 大正2.4.21 昭和9.5.30
有栖川宮威仁親王 ありすがわのみやたけひとしんのう 大正2.7.7 同日没
伊集院 五郎 いじゅういん ごろう 大正6.5.26 大正10.1.13
東伏見宮依仁親王 ひがしふしみのみやよりひとしんのう 大正11.6.27 同日没
島村 速雄 しまむら はやお 大正12.1.8 同日没
加藤 友三郎 かとう ともさぶろう 大正12.8.24 同日没
伏見宮博恭王 ふしみのみやひろやすおう 昭和7.5.27 昭和21.8.19
山本 五十六 やまもと いそろく 昭和18.4.18 同日没
永野 修身 ながの おさみ 昭和18.6.21 昭和22.1.5
古賀 峯一 こが みねいち 昭和19.3.31 同日没

総勢13名。
陸軍の元帥と比較すると、死後に元帥の称号を贈られたケースが多く、山本五十六や古賀峯一ら5名が死没後に元帥となってます。また、加藤友三郎は死の直前に元帥となりました。

元帥海軍大将 伏見宮博恭王

元帥一覧だけで終わるのはなんなので、歴代の元帥海軍大将から伏見宮博恭王について少し取り上げてみます。
大日本帝国において、皇族男子は陸海軍いずれかの軍人になる慣習がありました。伏見宮貞愛親王(陸軍元帥大将)の第一王子である伏見宮博恭王は、海軍兵学校に入学し、海軍軍人の道を歩み始めます。後にはドイツに留学しキール海軍兵学校を卒業、1904年には日露戦争に従軍しました。
伏見宮はお飾り的な皇族軍人ではなく、実力派の海軍軍人であり、特に操艦に関しては日本海軍屈指の名手として知られています。
(ちなみに陸軍には同じく皇族でありながら、日露戦争で活躍するなど実力派の軍人だった閑院宮載仁親王がいました。こちらも元帥となります。)

伏見宮は、1932年(昭和7年)2月に海軍軍令部長に就任しました。なんでも前年1931年に、前述の閑院宮載仁親王が陸軍参謀総長に就任したことが、伏見宮軍令部長にあてた一因となったようです。皇族が参謀総長となり陸軍の政治力が増したことから、同じ皇族である伏見宮軍令部長にすえて釣り合いをとろうとしたとか。
さておき、伏見宮はその後1941年(昭和16年)4月まで軍令部長(途中、軍令部総長に改称)の座にありました。
伏見宮は、軍令部長在任中に軍令部の権限強化に動きます。1933年(昭和8年)に「海軍軍令部」の名称を単に「軍令部」と改め、軍令部長軍令部総長に改称、それまで海軍大臣の権限とされていた大部分を軍令部総長に移す規則に改めました。
(当然ながら海軍省からの反対を受けています。とりわけ、当時軍事課長を務めていた井上成美(いのうえ しげよし)が死を賭して猛反対してますが、それらを押し切っての改定でした。なお、海軍省だの軍令部だのがよくわからないという方は、こちらをご参照ください。)
海軍では、陸軍と比べると海軍省の権限が強かったのですが、改定後は、軍令部に主導権のある事項が増加しています。ちなみに、海軍大臣の選任に伏見宮の同意が必要となったりも。
軍令部の権限強化および海軍省の弱体化は、大角人事(海軍大臣の大角岑生(おおすみ みねお)が伏見宮艦隊派の圧力を受け、軍拡反対の将校を次々に予備役編入した人事)と相まって日米開戦に影響をあたえることとなるわけですが、これについてはまたの機会に。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

戦時用語の基礎知識

日本海軍がよくわかる事典