Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【冀東政権】割と真面目に通州事件【保安隊の反乱】

本日は、「通州事件」について……などと、しれっと始めてみましたが、この事件のことを知っている人はどの程度いるのでしょうか。
「保守」ってる方や愛国者様なんかは、貴重な「対南京事件カード*1」として「押さえている」んでしょうが、「日本悪くない」論に特別な興味を持たない方は、ご存じでない割合が高いんじゃないかと予想してます。

通州事件は、中国の河北省東部に樹立された対日協力政権(というと聞こえがよいが要は傀儡政権)である、冀東(きとう)防共自治政府の治安維持部隊(保安隊)による反乱事件です。保安隊は日本守備隊、特務機関などを襲撃、軍人や冀東政府関係者だけでなく一般の日本居留民を殺害しました。
「保守」な方々は、この事件をもって「中国人の残虐性」を声高に訴えることが多いのですが、他にも、「中国は南京大虐殺ばかり宣伝するが日本人が虐殺された事件もある」とか、「南京事件での日本軍の残虐行為の原因は通州事件にある」とか、そういう「日本だけが悪いわけじゃない」的なことを言う方も。作家の児嶋襄氏なんかも、著作「日中戦争」で、日本軍の残虐行為の原点が通州事件への怒りにあるみたいなこと書いてますね。

 通州事件が、(層が偏ってるとはいえ)戦後世代に広く知られるようになったきっかけは、おそらく小林よしのりの「戦争論」あたりじゃないかと思うのですが、それより前にも、保守系論客が保守系論壇誌なんかで通州通州わめいているのが散見されますので、誰がどの程度「通州事件」の知名度に影響を与えたのかは、定かではありません。

さておき今回記事を書くにあたって、日本において「通州事件」がどのような周知のされ方をしているのか、その一端を知るため「通州事件」でググッてみました*2
まあ、案の定、「中国人が日本人を虐殺」だの「残虐目を覆う」だの「日本人には到底出来ない」だのと、扇情的かつ民族性と残虐性を無理に結びつけるサイトが大量に出てきてげんなりしてしまったわけですが、私の疲労感はさておいて一応、一例として「著名人」によるサイトを載せておきます。

「 中国人の邦人惨殺、通州事件を学べ 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト

念の為言っておきますが、リンクを貼ったからといって、私が当該サイトに共感したり賛意を示しているわけではありません。

ともあれ最初から予想はしてたものの、やはり通州事件については、保守ってる方によるサイトが大半を占めているようです。これらは保守ってる方々の「主張」を知らしめることが主目的のようで、故意か天然かは不明ながら事実関係について割と無頓着というか、奇妙に記述が漏れていたり誤認してる点が多いように感じました。
もちろん、通州事件の検索でヒットしたサイトには、それら特定の主張色が強いもの以外に、真面目に歴史的視点から記述されたものもあります。
こちらとか。)
しかしながらその数はけして多いとは言えません。こういった状況下では、歴史的事実そっちのけで奇妙な解釈がはびこりやすくなりますので、多少なりともそういう流れを食い止めるため、微力ながら私も記事を書いてみることにしました。
そんなわけで、本日記事は、通州事件について比較的「真面目」に取り上げてみようという企画です。

通州事件とは

通州事件は、日中戦争勃発後間もない1937年(昭和12年)7月29日に、北京近郊の通州で起きた冀東防共自治政府保安隊の反乱事件です。
冀東防共自治政府は、1935年12月に中国河北省東部に成立した反共・反国民党、華北自治実現を謳う政権ですが、その実態は日本の傀儡政権*3で、各機関に日本人顧問が置かれ政治をコントロールしていました。
反乱を起こした保安隊は、この冀東政権の配下にあった治安維持を目的とする中国人部隊です。
1937年7月7日、北京西南部、宛平(えんぺい)県の盧溝橋で日中両軍の軍事衝突(盧溝橋事件)が起きていますが、その約3週間後に通州事件が起きたことになります。

通州事件の発生

7月29日未明、通州*4に駐屯していた冀東政権の保安隊が突如反乱を起こします。反乱の首謀者は保安隊第一総隊長の張慶餘(ちょうけいよ)で、兵力は保安隊の教導隊、第一総隊、第二総隊など計約7000人でした。

なお、反乱の動機については、事件後から現在まで多くの議論がなされているものの、未だ明確な結論が出ていません。
中国側有利のデマ宣伝を聞いた保安隊が、このまま傀儡政権に与していては危ないから保身のため反乱したとか、7月27日に日本軍飛行編隊が保安隊を誤爆したためだとか、反乱首謀者の張慶余が中国側第29軍長の宋哲元と密約を交わしていたからとか、いくつかの説があります。
(保安隊の第一総隊、第二総隊の幹部・隊員は、満州事変で満洲を追われた東北出身者が多く、日本と冀東政権に強い反発心を持っており、この点も反乱を起こす一因となったと考えられます。)

さておき、保安隊は通州にあった冀東政権や日本軍の関連施設などを襲撃しました。これにより、通州守備隊や通州特務機関、通州領事館警察で死傷者が出ています。

通州守備隊は死者20名、重軽傷者20名、通州特務機関は10名ほどの機関員が殺害されました。細木機関長は冀東政権指導者の殷汝耕(いんじょこう)政務長官を保護するために政庁に向かいますが、正門にたどり着いたところで保安隊員に包囲され殺害されてます。なお、殷汝耕は保安隊に拉致され身柄を拘束されました。通州領事館警察には保安隊襲撃時6人の警官とその家族が武器を持って籠城していましたが、日野分署長ほか警官全員が死亡します。生き残ったのは浜田巡査の妻シツと、石島巡査の男女二人の子供だけでした。
(生き残った子供二人のうち、長女は保安隊員がどこかへ連れ去りました。長男は石島宅で働いていた使用人の中国人により保護されています。)

冀東政権と日本側各機関を襲って都市機能を完全に麻痺させることに成功した保安隊は、その後、通州の日本人居留民宅への襲撃を開始します。
ちなみに、事件前日の28日に、保安隊員が通州守備隊兵営近くの日本居留民の家屋を調べ歩き、その家の壁にチョークで「△」やら「X」やらの印をつけて回っている姿が日本居留民により目撃されており、日本人居留民宅への襲撃は計画的なものであったようです。
日本居留民の中には、保安隊員のいつもと違う行動に不安を覚えて、守備隊兵営や通州城外への避難を始めるものもいました。

日本居留民の殺害

通州事件では、通州に住んでいた朝鮮人を含む日本居留民225名が保安隊に殺害されました。殺害された者の中には、冀東政権の顧問だった者も含まれています。
通州事件による日本居留民の死亡者数は225名、その内114名は日本人、111名は朝鮮人です。冒頭で述べた保守ってる方々のサイトでは、殺害された人々の半数が朝鮮人だった点についてなぜか触れられてないことが多いように思いますが、それはさておき、これら居留民には、密輸、特にアヘン等の麻薬密輸に従事していたものが多くいたのではないかという指摘があります。
(特に朝鮮人の「無職者」割合が多く、その一部は密輸に手を染めていたのではないかと推察されています。)
冀東政権は、国民政府の高関税率の抜け穴となる「冀東密貿易」政策を実施したり、日本の支那駐屯軍によるアヘン密輸に便宜を図ったりしていたのですが、こういった点が上記の背景にあるといえるでしょう。
なお、元南満洲製薬会社社長の山内三郎によれば、冀東地区は満洲、関東州などから送り込まれるヘロイン*5などの密輸基地の観があり、通州郊外では、麻薬製造が公然と行なわれていたそうです。日本人によるヘロインの製造〜販売ラインのうち、"小卸し"から先は朝鮮人の仕事となっていたとか。

なお、通州事件では、首を切り落としたとか、目玉をえぐったとか、鼻に針金を通したとか、その残虐性について保守ってる方々がアピールしてることが多いのですが、これらの情報は、当時の新聞に依拠するものと思われます。東京裁判や、戦後の生存者による証言でも同様のものは出てくるのですが、人間の記憶は割といい加減なもので、またその人の状況によって言い方が変わったりもしますので、証言の取り扱いには注意が必要です。広中一成氏によると、当時の現地日本軍の史料にも酷い殺害があったことは記されているものの、首が切り落とされたとか、目玉がえぐられたとかいった記述はなかったそうです。
そんなわけで、通州事件における殺害の実相については、改めて検証を行なう必要がありそうです。
ちなみに、事件後、日本は通州事件を国内/国外の双方に対して反中プロパガンダの材料として利用しました。新聞報道においては、当初はスタンスの違った各紙が、時間の経過に伴いまるで統一見解でも出来たような反中感情を煽る内容に変化しています。
ついでに、通州事件の現場を撮影したとされる写真についても、通州事件に関するものと断定できない…というか怪しいものが大半だったりします。

保安隊のその後

さて、反乱に成功した保安隊は、その後、7月30日に通州を脱して北平(北京)に向かいます。
しかし、この時北平はすでに日本軍の占領下にあったため入ることができませんでした。ちなみに拉致された殷汝耕は、保安隊が北平北側の安定門に到着した際、日本側との交渉役を買って出ることで拘束を解かせ、そのまま脱出しています。安定門に留まっていた保安隊は、駆けつけた日本軍によって武装解除されますが、張慶餘は日本軍に逮捕されることを恐れて、手勢を率いて宋哲元のいる保定に逃走しました。

通州事件の「後始末」

日中戦争勃発以降、日本軍にとって通州は占領地の後方を維持する重要な拠点であり、早急に復興させる必要がありました。
通州事件後、通州治安維持会が設立され、同会により日本居留民保護や通州城内の復興作業が推し進められることとなります。同年10月には商店の営業が再開されるなど、事件前の活気を取り戻していきました。

もう一つの後始末は、責任問題です。
通州事件では、事件直前に起きた関東軍飛行編隊による誤爆が事件発生の原因とみなされた場合、陸軍および日本政府の責任問題となる可能性がありました。そのため、北京日本大使館参事官であった森島守人は、通州事件の責任問題について迅速に解決して陸軍・日本政府への追求を避けようとしています。
結局、通州事件の責任は冀東政権が負うこととなり、日本への謝罪、日本側犠牲者遺族への弔慰金(物損被害の賠償金と負傷者への見舞金も含む)支払い、慰霊塔建設用地の無償提供が約束されました。
ちなみに、被害者遺族に支払われた弔慰金について、日本人平均額が約5770円(現在貨幣価値換算で約1440万円)に対し朝鮮人が約2500円(約625万円)と、朝鮮人は日本人の半額以下である差別的なものでした。

反乱の動機についてもう少し

前述の通り、反乱の動機については未だ明確な結論が出ていないのですが、もう少しだけ詳しく説明しておきます。

主な説としては、中国側の勝利を報じるデマ宣伝のラジオ放送を聞いた保安隊が、日本の傀儡政権に与していては危ないから反乱を起こしたという「デマ宣伝説」、冀察政務委員会*6第29軍の傅鴻恩(ふこうおん)部隊を爆撃しようとした関東軍飛行編隊が、保安隊を誤爆したため反乱が起きたという「誤爆」、反乱の首謀者だった張慶餘の回想手記を基とする、第29軍長宋哲元(そうてつげん)と謀って反乱を起こしたとする「密約説」が挙げられます。
他にも蒋介石直属の特務機関による謀略説、中国共産党謀略説なんかもありますが、上記も含めていずれも決定的なものとは言えず、この問題をより明らかにするには、新たな史料の発見と今後の研究を待つしかなさそうです。

ちなみに、無敵万能コミンテルン*7の陰謀を主張する方もおられるようですが、それを証明する史料どころか、コミンテルンが関わったことを示す傍証もありません。まあ、今のところ日本は(一応)立憲民主主義の国ではありますので、そのような夢を見るのは自由です。

最後に

さて、以上、通州事件について割と「真面目」に取り上げてみたつもりです。
通州事件は、反中プロパガンダに利用されたこともあって、日本国民の反中感情に火をつけることとなり、世論が日中戦争支持に傾く一因となりました。
残念なことに、通州事件は「真面目」に取り扱われることが少なく、その結果、現代においても未だ反中感情を煽る具として利用されてたりします。

以下、余計な余談。
情報の統制は権力者にとって重要な武器となりますが、その武器に最大限の効果を発揮させるには、人々の感情を利用することが手っ取り早いです。特に狭量な正義感や、恨み嫉み妬みなんかはそういう用途に最適ですね。その手の感情を煽るような情報が流れてきた際は、その情報に何者かの意図が加えられてないか、特に警戒感をもって当たった方がよさそうです。
余計ついでに、ゲーム「アルファケンタウリ」から名言を一つ。

情報へのアクセスを拒否する者に注意せよ。その者はあなたを支配することを夢見ているからだ。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

通州事件 日中戦争泥沼化への道

 

 

*1:ちなみに、戦力比は十数万〜数万:225。通州事件の方が225です。なお、十数万〜数万という数字は、私が「真面目」な研究と判断したものから持ってきてますので、あしからず。

*2:正直、脳が腐りそうなのでやりたくなかったのですが…。

*3:関東軍の傀儡政権、といったほうがより実情に近いかもしれません。

*4:正しくは通県。「通州」は中華民国が州制を廃止する前の旧称ですが、一般にはそのまま「通州」が用いられてました。

*5:アヘンの主成分であるモルヒネに、無水酢酸を加えてできる麻薬。

*6:国民政府公認の自治政府で、委員長は第29軍長の宋哲元。

*7:1943年に、「役に立たない」ということで解散させられました。