Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本軍と保安隊】通州事件をもう少し【国民政府と中国共産党】

前回、「保守」派の方々が熱く語ることが多い通州事件について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

「保守」な方々は、通州事件をダシに日本を正当化したり反中感情を煽ったりとせわしないのですが、熱く語る割に、故意か天然か重要な情報がよく欠落してたりします。
まあ、それはさておき、今回は上記記事の補足。前回、触れられなかった点についていくつか熱く語ります。

1分で(一応)わかる通州事件

一応、通州事件の概要について簡単に。

1937年(昭和12年)、日中戦争勃発後間もない7月29日。
中国河北省東部にあった日本の傀儡政権、冀東(きとう)防共自治政府*1の配下にあった治安維持部隊(保安隊)が反乱を起こしました。
反乱は、冀東防共自治政府の首府であった通州*2で起こり、保安隊は冀東政権や日本軍の関連施設などを襲撃。これにより、通州守備隊や通州特務機関、通州領事館警察で死傷者が出ています。さらにその後、保安隊は一般の日本居留民をも襲撃し、225名を殺害しました。なお、日本居留民の内訳は、日本人114名、朝鮮人111名で、その半数は朝鮮人です。
保安隊反乱の原因については未だ明確な結論が出ておらず、中国側有利のデマ宣伝を聞いた保安隊が、このまま傀儡政権に与していては危ないから保身のため反乱したとか、7月27日に日本軍飛行編隊が保安隊を誤爆したためだとか、反乱首謀者の張慶余が中国側第29軍長の宋哲元と密約を交わしていたからとか、いくつかの説があります。後述しますが、中国国民政府や中国共産党の関与もあったようです。
なお、保安隊の幹部・隊員は、満州事変で満洲を追われた東北出身者が多くいたこともあって、日本と冀東政権に強い反発心を持っており、この点も反乱を起こす背景となっていました。

…と、こんなとこでしょうか。
詳細については、前回記事をご参照ください。

では、以降、前回記事の補足事項を。

保安隊とは

反乱を起こした「保安隊」はどのような軍隊だったのでしょうか?

保安隊は2個区隊約3000人からなる総隊が5個、総兵力1万5000で構成されます。
このうち、教育部隊の教導総隊と、第1総隊、第2総隊が保安隊の主力で、日本軍から入手した野砲4門、迫撃砲数門、重機関銃軽機関銃などを装備していました。また、これらの装備について、訓練のため日本の支那駐屯軍より下士官数名がそれぞれの総隊に派遣されています。

保安隊の来歴

保安隊はもともと、塘沽停戦協定*3で設定された非武装中立の緩衝地帯の治安維持にあたる機関でした。
緩衝地帯では戦禍によって悪化した治安が問題となっており、保安隊はこの治安回復のために警察機関に宛てた、李際春(りさいしゅん)軍がもとになっています。

緩衝地帯の治安悪化の大きな原因は、関東軍満洲で編成した中国人部隊である雑軍が暴れまわっていたことです。雑軍はもともと満洲を荒らしまわっていた馬賊と呼ばれる武装集団なのですが、関東軍はこれを雑軍に再編成して中国冀東地区に攻めこませることで、満洲から追い払おうとしました。
雑軍は、軍紀が悪く関東軍の命令に従わなかったり、集落を襲ったりしていましたが、関東軍はこれをろくに統制することなく放置するようになります。さらに、塘沽停戦協定成立後は、雑軍を残したまま関東軍満洲に引き揚げたため、さらに治安が悪化しました。

塘沽停戦協定では、緩衝地帯の治安維持について中国側警察機関が担当するものと定められていたのですが、これには、日本側に友好的な組織を用いるという条件がついています。
保安隊のもととなった李際春軍も雑軍の一つだったのですが、李際春は関東軍の軍事行動に協力的だったため、関東軍と中国側は話し合いの末、これを治安維持に用いることに決定しました。
(余談ですが、李際春は戦前に活躍した映画女優李香蘭山口淑子)の養父にあたります。)
1933年8月初め、李際春軍を中心に大小の雑軍が保安警察隊として再編成され、緩衝地帯の警備にあたることとなります。

その後、保安警察隊は「保安隊」と改称、何度か将兵の入れ替えが行なわれました。1935年2月の改編では、関東軍の許可を得て、国民革命軍第五十一軍から2個団(「団」は連隊相当)、約5000人を保安隊に加えています。これらの部隊を率いていたのが、後に通州事件を起こす張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)でした。この2個団は軍事訓練を受けていた精鋭であり、後、保安隊の主力となります。

1935年11月、関東軍の工作により冀東政権が成立すると、保安隊は政権麾下の治安維持部隊として改編され、冀東地区の重要拠点に配備されることになりました。

関東軍誤爆とその顛末

保安隊反乱の動機に、日本軍飛行編隊が保安隊を誤爆したためだという説がありますが、この誤爆事件について、もう少し詳しく。

通州事件の約3週間前には盧溝橋事件が起こり、日本軍と中国側第29軍*4が衝突していますが、通州の新南門外側には、第29軍の傅鴻恩(ふこうおん)部隊約500人が駐屯していました。

傅鴻恩は、盧溝橋事件発生後、日本側に寝返ろうとする態度をみせていましたが、その真意ははっきりしませんでした。
通州特務機関の細木機関長は、傅鴻恩部隊を放置することは危険であると判断。7月18日に通州に到着していた萱嶋部隊(支那駐屯歩兵第二連隊)幹部と協議し、26日夜、傅鴻恩に対して27日午前3時までに武装解除して通州を離れなければ、武力行使する旨通告します。
指定時刻になっても傅鴻恩部隊からの回答がなかったため、萱嶋部隊は27日午前4時に攻撃を開始。夜が明けると、関東軍から萱嶋部隊掩護のため派遣されてきた飛行第十五連隊の飛行編隊8機が爆撃を加えました。
しかしこの飛行編隊は、保安隊幹部訓練所から爆撃の様子を見ようと出てきた保安隊員や学生を第29軍兵士と誤認、彼らにも爆弾を投下します。これにより、保安隊員ら10人あまりが死傷しました。

この誤爆事件については、細木特務機関長がただちに冀東政権指導者の殷汝耕(いんじょこう)政務長官に謝罪しています。さらに保安隊幹部を集めて保安隊員の動揺を抑えることを求めました。とはいえ、保安隊幹部や隊員の一部からは日本軍を非難する声もあがっており、この誤爆事件は保安隊の反日感情を一層高めることとなります。

支那駐屯軍は隠したい

通州事件直前の通州城内の警備体制についても少々。

前述の萱嶋部隊は、傅鴻恩部隊を掃討後、7月27日午後に支那駐屯軍司令部の命令を受け、通州には帰還せずそのまま第29軍の集結していた北京南部の南苑へ移動することとなります。
これと入れ替わりに、通州兵站司令官の辻村憲吉中佐が到着し、通州守備隊の編成を行いますが、通州守備隊の兵力は萱嶋部隊と比べて小さなものでした。
編成完了時の通州守備隊の兵力は兵站司令部2人、通州警備隊49人、山田自動車部隊53人、通州憲兵分遣隊7人、病馬収容班5人、野戦倉庫2人、軍兵器部出張所2人の系120人です。
通州守備隊の他にも、通州特務機関や通州領事館警察があり、また日本居留民の自衛組織として在郷軍人会通州分会と日本義勇隊がありましたが、いずれも戦力としては小さなものでした。
以上の通り、保安隊の反乱が起こった時の日本側戦力は極めて不十分なものでした。

さて、保安隊の反乱の際、通州守備隊は保安隊の攻撃に応戦する一方で、支那駐屯軍司令部や通州付近に駐屯する日本軍部隊に対して救援を求める電文を送り続けています。
通州外部との通信は、保安隊により遮断が行なわれていたものの、幸いいくつかの電文が外部に届いていたようです。
通州守備隊の辻村中佐からの連絡を受けて、支那駐屯軍司令部では保安隊の反乱を知ることとなりました。これに対して支那駐屯軍司令部はどう動いたのでしょうか?

支那駐屯軍司令部は、通州事件の発生に狼狽します。保安隊の内面指導を行っていた支那駐屯軍司令部にとって、保安隊の反乱は監督責任を問われかねない事件だったからです。
当時、支那駐屯軍司令部には陸軍省軍務局新聞班の松村秀逸少佐が訪れていましたが、支那駐屯軍司令部の幕僚は、松村少佐に対し通州事件の新聞報道を差し控えるよう要求します。松村少佐は到底無理として突っぱねますが、激しい口論となったようです。結局、支那駐屯軍司令部の要求は通りませんでしたが、通州事件の責任問題に汲々とした結果、日本居留民の保護に遅れが生じました。

萱嶋部隊に対して通州に引き返すよう命令が発せられたのは、事件発生から1日が経過しようとしていた7月30日午前2時でした。

通州事件後、杉山陸軍大臣は、香月清司(かづき きよし)支那駐屯軍司令官に対し遺憾の意を表明するよう求めましたが、香月は通州事件は誰もが避け難い災難とでも言うべきものだったと強弁し、「局部の事象」に対し軍司令官が謝罪的遺憾の意を表明するのは軍の士気に関わるとして拒絶します。
結局、支那駐屯軍通州事件に対して何ら責任をとることはありませんでした。

国民政府と中国共産党の関与

保安隊の反乱動機については、前回、いくつかの説を紹介しました。
そのうち、蒋介石直属の特務機関による謀略説、中国共産党謀略説については時間がなくて少し触れただけになってたので、もう少し詳しい話を。

まず、蒋介石直属の特務機関による謀略説。この特務機関は具体的には国民政府軍事委員会調査統計局、略して軍統を指しています。軍統の幹部、陳恭澍(ちんきょうじゅ)の証言によれば、保安隊への謀略工作は冀東政権成立1年後の1936年秋から始まり、紆余曲折あったものの張慶餘の説得に成功、張慶餘は国民政府の命令に従って行動することを誓ったとしています。

次は、中国共産党謀略説について。
中国共産党側の資料をもとに書かれた「通州事件的経過」によると、劉少奇(りゅうしょうき)が保安隊内部に中国共産党員を送り込み、張慶餘、張硯田に会い数多くの工作を行ったとしています。

以上の通り、双方の勢力が保安隊への働きかけを行っていたとしています。
時折、誰かが謀略をもくろむと、後は全てそいつらの目論見通りにことが進むと考えちゃう無邪気な方々がいるのですが、現実はそれほど単純ではありませんので、これらがどの程度、保安隊の反乱に影響したかはわかりません。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

通州事件 日中戦争泥沼化への道

 

 

*1:関東軍の傀儡政権、といったほうがより実情に近いかもしれません。

*2:正しくは通県。「通州」は中華民国が州制を廃止する前の旧称ですが、一般にはそのまま「通州」が用いられてました。

*3:1933年(昭和8年)5月、塘沽(タンクー)で締結された、日本の関東軍、中国国民政府軍間の停戦協定。1931年から続く満州事変の事実上の講和条約となりました。

*4:国民政府公認の自治政府である冀察政務委員会麾下の軍。第29軍長の宋哲元は冀察政務委員会の委員長でもあります。