Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【冀東防共自治政府】冴えない政権の作りかた【通州事件】

最近、通州事件についての記事を二つほど書きました。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

通州事件は、中国河北省東部にあった日本の傀儡政権、冀東(きとう)防共自治政府の配下にあった治安維持部隊(保安隊)による反乱事件です。
(詳しくは、上記の記事をご覧ください。)
当該事件は、秦郁彦氏の言葉を借りれば"中国人が日本人を集団虐殺した唯一に近い「例証」"なこともあって、「保守」派というか「愛国者」な方々が大喜びで取りあげることが多いです。ところが、あれだけ嬉々として熱くウザく語ってくる割に、大抵、冀東防共自治政府が傀儡政権だったこととか、殺害された日本居留民の半数が朝鮮人だったという情報をばっさりカットしてきたりします。なにか不都合でもあるんでしょうかね?(白々しく)

さておき、前回はそのばっさりカットされがちな冀東政権について取り上げてみました。

oplern.hatenablog.com

上記記事では、冀東政権の成立経緯について「紆余曲折の末」なんて一言で片付けてるのですが、今回はもうちょっと詳しく、どんな「紆余曲折」があったのか冀東防共自治政府誕生までの経緯を追ってみます。

満州事変、熱河作戦、関内作戦

1931年9月18日、自作自演による満鉄線路爆破を口実に、日本の関東軍*1は軍事行動を開始します(満州事変)。
関東軍は、中国側の東北軍満洲から排除すると、1932年3月に満洲国を建国。満蒙一帯を支配下に収めました。

さらに、1933年2月。関東軍満洲国の領土拡大を図り、満洲国の南側に隣接する熱河省(現河北省北部)に侵攻します(熱河作戦)。
熱河作戦について、昭和天皇は、熱河省とその南の河北省の境となる万里の長城を越えて侵攻しないことを条件に認可していました。ところが、関東軍は4月10日に長城線を突破、河北省内部に侵攻します。
4月18日、昭和天皇は、関東軍は河北からまだ撤退しないのかと真崎参謀次長に下問、これを受けて翌19日に撤退命令が下され、関東軍は長城線に撤収しました。

しかし、熱河作戦では満州事変を収束させることができず中国側の抵抗が続いたため、5月3日に再び河北省に侵攻します(関内作戦)。
5月下旬には、関東軍は北京(北平)から数十キロの地点に迫り、5月25日に中国国民政府はついに日本に停戦を求めました。
このとき、国民政府は中国共産党との戦いを優先していたため、関東軍の侵攻への対処が困難だったのです。
関東軍も、兵站線が延びきっており、これ以上の戦線拡大は無理と判断していたため、停戦の申し入れを受け入れました。

5月31日、天津近郊の港町である塘沽(タンクー)で、塘沽停戦協定が締結されます。
これにより、長城以南に非武装地帯が設定され、当該地帯の政務や治安の維持は中国側が担当することになりました。

華北分離工作

さて、塘沽停戦協定により、満州事変から始まる関東軍の一連の軍事行動は終結したわけですが、設定された非武装地帯が反満抗日ゲリラの拠点となったこと、中国共産党が八・一宣言を発表し国民党と中国の全国民に抗日を呼びかけたことから、関東軍は共産勢力が華北に侵入して満洲国を包囲するのを防ぐため、華北関東軍支配下に置くべきだと考えるようになりました。そこで、関東軍支那駐屯軍と協力して、華北5省(河北、山西、山東、察哈爾、綏遠)を国民政府の支配から切り離すことを画策します(華北分離工作)。

関東軍の計画では、まず華北の民衆を扇動して華北自治運動を起こし、その民衆の声を受けた形で華北5省の実力者らが連合して自治政権を樹立する、ということになっていました。
この工作については、奉天特務機関長の土肥原賢二(どいはら けんじ)が実施しています。ちなみに、土肥原は一部中国人からは「土匪元」と呼ばれ恐れられていたそうです。

土肥原は自治政権の指導者として、非武装地帯の行政監督を務めていた殷汝耕(いんじょこう)に目をつけました。
殷汝耕は日本への留学経験があり、その日本語能力は日本人とほとんど変わりなかったといわれています。
(ちなみに、早稲田大学留学中、日本人女性の井上民恵(後に民慧(みんけい)と称します)と結婚してます。)

土肥原が殷汝耕に続いて注目したのが、国民政府第29軍軍長の宋哲元(そうてつげん)でした。
宋哲元は、熱河作戦において喜峰口で関東軍を撃退し名声を得た人物です。1935年8月には、北平市長ならびに平津衛戌(えいじゅつ)司令という首都防衛の要職についています。
土肥原は華北の政治経済の中心地を支配している宋哲元と殷汝耕を合わせれば政権が作り出せると考えていたようです。

1935年10月、土肥原は特務機関員を使って、非武装地帯に隣接する香河県で自治を求める民衆運動を発生させます。
計画では、この「民意」を受けて華北防共自治委員会を設立、華北自治を宣言させ、最終的には華北5省を支配する防共自治政権を成立させる予定でした。

ところが、土肥原の求めに対して殷汝耕は協力的だったものの、宋哲元はあいまいな態度をとります。
宋哲元は、土肥原の誘いに応じることで漢奸とされ、これまで築いた地位を失うことを恐れていたのです。
土肥原の要求にあわせて関東軍の軍事的圧力を受けた宋哲元は、蒋介石に助けを求めました。蒋介石は、宋哲元に土肥原を相手にしないよう命じ、また、後には華北分離工作を食い止めるため冀察(きさつ)政務委員会を設立し、宋哲元を委員長に任命することとなります。

冀東政権の成立

さて、土肥原は関東軍司令部から11月中に華北分離工作を終えるよう命令されていましたが、上記の通り宋哲元は土肥原の要求に応じず、また他に目をつけていた有力者も華北防共自治委員会設立に加わることはありませんでした。

そこで、土肥原は協力的な殷汝耕にまず自治委員会を作らせ、それから宋哲元らを取り込むという方針に改めます。
1935年11月25日、土肥原の要請に応じて殷汝耕は「冀東防共自治委員会」を設立しました。
なお、殷汝耕は、宋哲元らが政権を作り次第、冀東政権はそれに合流すると宣言しています。

こうして冀東政権が成立しましたが、この後も土肥原は宋哲元に自治政権の設立を迫ったため、蒋介石華北分離工作を進展させないよう、12月11日に冀察政務委員会を設立します。
冀察政務委員会の委員長には宋哲元を任命し、国民政府の承認のもとで、ある程度の自治権を与えました。

冀察政務委員会の設立により、宋哲元に冀東政権との合流の意志がないことが明確になると、冀東防共自治委員会は「冀東防共自治政府」に改組し、自治政権としての体制を強化します。こうして冀東防共自治政府が誕生することになりました。

華北5省の分離独立を目的とした華北分離工作は、結局華北の一部に冀東・冀察という性格の異なる自治政権を誕生させるという中途半端な結果に終わったわけですね。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

ニセチャイナ―中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京 (20世紀中国政権総覧)

 

 

*1:中国東北部に駐屯していた日本陸軍の部隊。旅順、大連などのいわゆる「関東州」とそこを拠点に北方に伸びる南満州鉄道(満鉄)を警備することを目的としていましたが、満州事変を起こした後巨大化し、日本の大陸政策において重大な役割を果たすことになります。ちなみに戦中派の人には、関東軍=独走するものというイメージがあり、組織のなかのあるセクションが周囲の意向を無視して暴走する場合に「関東軍」と揶揄したりも。余談ですが、週刊少年サンデーで連載していた「神聖モテモテ王国」でも、「配下にしても関東軍ぐらいあつかいにくいんじゃよ」と国王ファーザーが述べるシーンがありました。どうでもいいか。