Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】石垣島事件【捕虜殺害】

前回、沖縄戦における現地住民と日本軍に関するイヤな話を取り上げました。
(ちなみに、上記は戦争や軍隊におけるイヤな話を取りあげるシリーズ記事(予定)の2回めです。)

oplern.hatenablog.com

前回記事では、話のまくらに、先日の衆院安全保障委員会にて日本共産党赤嶺政賢議員が取り上げた防衛省の内部文書「機動展開構想概案」について触れています。

「残存兵30%まで戦闘」/石垣での「島嶼奪回」作戦/赤嶺議員、防衛省内部文書を暴露

同文書は沖縄県石垣島を想定した島嶼奪回を検討した文書ということです。想定では、沖縄県石垣島に4500名規模の敵部隊が上陸し、これに対し石垣島配備の自衛隊約2000名が損耗率7割(!)に達するまで交戦、戦闘後の残存兵力数が自衛隊538名、敵部隊2091名となり劣勢になるものの、その後自衛隊の空挺大隊や普通科連隊、計1774名の増援を得て優勢になるので、結論としては約2000名の部隊増援により、石垣島の再奪回が可能としています。
4500名規模の敵部隊が上陸するということなので、普通に考えれば航空優勢海上優勢は喪失しているんじゃないかと思うのですが、そんな状況でも兵力比2000:4500から538:2091まで持っていける(つもり)というのは、相当な脳天気自信で頼もしいですね。あとその状況でどうやって2000名を増援するのかはわかりません。

ともあれ、前回記事は上記の話題を受けて書いたものだったのですが、今回はそのついで。太平洋戦争時に、同文書の想定舞台である石垣島で起こった捕虜殺害、「石垣島事件」について少し取り上げたいと思います。

石垣島事件とは

石垣島事件は、太平洋戦争末期に日本海軍警備隊が、捕虜となったアメリカ人飛行士3名を殺害した事件です。

1945年4月15日朝、石垣島の宮良飛行場を空襲した米空軍機が日本海軍の高角砲(高射砲)によって撃墜され、飛行士3名がパラシュートで海面に降下しました。
日本海軍警備隊はこれを捕獲。米軍の編成や空母などについての情報を得るため尋問しています。
尋問後、海軍警備隊は3名を警備隊本部から150メートルほど離れた荒れ地に連行。4月15日の夜11時に3名を処刑しました。
処刑は、2人が斬首、1人は銃剣による刺殺で、50人ほどの兵が周囲を取り囲んだ状況で行なわれたそうです。また、殺害前には3名に対し暴行が加えられました。

殺害後、3名の遺体には土が被せられ、野犬が掘り起こさないよう重石が乗せられました。
敗戦後、警備隊はこれを掘り返して、遺体を燃やし、遺骨を西表島北方約3000メートルの海中に投棄しました。隠蔽ですね。

発覚と裁判

ところが、戦後、この事件は匿名の投書により発覚します。
(公判記録には、1人の水兵が良心の呵責に耐えかねて洩らしたとあります。)

米陸軍第8軍によるBC級戦犯の横浜裁判において、警備隊司令だった井上乙彦大佐以下46名が起訴されました(後に1名は取り下げ)。
1948年3月16日、横浜地裁を法廷とした軍事裁判第一審にて41名が絞首刑の判決を受けますが、後に34名が減刑、最終的には司令の井上大佐以下7名が絞首刑となっています。絞首刑となった7名は士官5名、下士官2名でした。

処刑

1950年4月7日、東京巣鴨プリズンで7名の処刑が執行されます。朝鮮戦争勃発の約2ヶ月前のことでした。ちなみに巣鴨プリズンでの死刑執行はこれが最後となります。
死刑判決を受けなかった受刑者は、除々に釈放されていきました。

最後に

さて、ついでというとなんですが、当時の石垣島の状況について少し。

石垣島には日本陸軍第45旅団が駐屯していましたが、同旅団は石垣町・大浜村の住民に対し、山岳地域への疎開を命じています。
当時、石垣島にはマラリア発生地域があったのですが、これは指定された疎開先にも含まれていました。
そのため、罹患者1万人、死亡者2500人のマラリア犠牲者を出すこととなります。

太平洋戦争では、北ビルマ戦線などでマラリアが問題となったことが知られていますが、実は沖縄戦でもマラリア罹患者が相当数出ています。
石垣島から南方40kmの波照間島(はてるまじま)でも非道い話が残ってますが、この辺の話はまたいつか。