【戦争と兵器を知ろう】竹槍
最近、防衛省の内部文書をきっかけに沖縄戦に関連する記事を二つほど書きました。
沖縄戦前には、第三十二軍が戦闘人員確保のため根こそぎ的に防衛召集を行っています。
動員された「防衛隊」は、当初、陣地/飛行場構築、弾薬/食料輸送、負傷者後送などの輜重・兵站関係が主でしたが、戦局悪化につれて第一線に立たされ、夜間斬込みには先頭に立って道案内をさせられたり、「自分の土地は自分で守れ」とかいう理屈で爆雷を背負って「爆薬戦闘」をさせられたりしました。
防衛召集により動員されたのは、総計22000人以上、死亡者については正確な統計がないものの13000人とか16000人とかいわれてます。
これだけの人数を召集したものの、防衛隊員にいきわたる小銃はほとんど無く、彼らの武器は手榴弾と竹槍でした。このため「棒兵隊」と自嘲したり揶揄されたりしてたそうです。
日本陸軍制式兵器 竹槍
ところで、竹槍については日本の非合理性を象徴する武器であるかのように取り上げられることがありますが、私に言わせれば、そのような見方はまだ生ぬるいものです。
竹槍は、一般市民、すなわち「兵隊じゃない人々」が使う予定だった武器だと思われてますが、実際には、すでに日中戦争において後方兵站部隊の自衛用として使われてたり、小銃の行き渡ってない後方部隊で銃剣代わりに多用されたりしていました。
日本陸軍の兵器は、軍オフィシャルの兵器である「制式兵器」、輸入兵器をメインとした「準制式兵器」、プロトタイプである「試製兵器」、敵から鹵獲した「鹵獲兵器」といったカテゴリーがあります。さらに、現地軍が独力で製造した「自活兵器」なんてものもあり、これは各戦線で多用されました。
竹槍なんてものは、ぱっと聞いた限りではいかにも「自活兵器」に入りそうなのですが、実は「制式兵器」として規格されています。
竹槍の「規格」
竹槍の「規格」は、陸軍戸山学校*1発行の「銃剣術指導必携」(1942年)に記載されています。
また、同年にやはり陸軍戸山学校から発行された「竹槍訓練ノ参考」にも掲載されてました。
竹槍には、「一般用」と「少年用」の2種類のサイズがあり、一般用は直径約4センチ、長さ1.7〜2メートル、少年用は直径約3センチ、長さ1.5メートルとされています。
材料には生または生乾きの竹を利用し、切断した竹の先端部に20度の角度で刃を付けます。さらに先端部分強化のために植物油を塗布して弱火で加熱し硬化させました。先端部分強化については、竹の節の第1節が刃の部分に来るようにするという工夫もなされています。また、竹の節は第3節以降は操作に便利なよう削りとったのですが、第2節は刺突時のストッパーとするために残しました。竹槍頭部に、鉄パイプを斜めに削いで作った刃を付けることも行なわれたようです。
冴えない竹槍の使いかた
竹は、成長が早く堅牢で、建材にしたり、水筒にしたり、節を抜いてパイプにしたりと、色んな使い途がある便利な植物です。
かつて、さる電波陸軍大将が、竹槍300万本あれば列強恐るるに足らず、と豪語したそうですが、まさか、そんな決戦兵器としても有効だとは、まさに奇跡の植物といってよいのではないでしょうか。
竹の驚異に感動しつつも、ここで「定本 沖縄戦」より竹槍が実戦で使われた事例を一つ。
防衛隊に招集された本部村渡久地(とぐち)のある住民は、伊江島の第502特設警備工兵隊に配属された。
彼は37〜40年の支那事変経験者だったが、伊江島では武器は竹槍と手榴弾の”棒兵隊”だった。1個分隊には1、2丁の小銃しかなかった。
アメリカ軍上陸2日目夜、斬込みに出た。相棒と2人、アメリカ軍のテントの中に突っ込んだ。2人の兵が飛び起きた。武器は持っていなかった。竹槍で黒人兵を突いた。必死で突こうとするが、相手にやりをつかまれてなかなか突けない。相棒は小銃を持っていたが、彼ももう1人に捕まえられた。相棒は慌てていて銃の安全装置を外せなかったのだ。床尾で相手を一撃したので、アメリカ兵は倒れた。夜が明けかかっていたので退却した。
うん、銃床打撃の方が強いっぽいです。銃床打撃万歳。*2
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
激戦場 皇軍うらばなし