【大日本帝国】竹槍始末【日本陸軍制式兵器】
前回、日本軍の「制式兵器」である竹槍について記事を書きました。
今回はそのついでというとなんですが、竹槍にまつわるちょっとした話を。
なお、本日の記事タイトルは某時代小説のパクリオマージュです。
竹槍と一揆と秩父事件
日本で竹槍というと、戦時中の竹槍訓練以外には、百姓一揆がイメージされることが多いと思います。
ところが、一揆で竹槍が多用されるようになったのは明治に入ってからで、江戸時代にはあまり使用されませんでした。
保坂智氏は、江戸時代の一揆における竹槍は多くの得物の一つであって、防御的な性格を持ち、積極的な武器として使用するという姿勢は見られないと指摘しています。
これが明治に入ると、竹槍の地位が向上(?)し一揆におけるメインウェポンとなります。
例えば、1884年(明治17年)に発生した秩父事件*1の裁判資料から携行武器の統計を取ると、圧倒的に竹槍の割合が多いそうです。カウントの仕方によって異なりますが、全有罪者中の37.5%から70.4%が竹槍を保持していたとか。
(とはいえ、刀剣、鉄砲類も多く使用されてます。)
竹槍カスタム
前回記事で書いた通り、日本陸軍では竹槍が「制式兵器」として規格されています。
陸軍戸山学校*2発行の「銃剣術指導必携」に記載された竹槍製造要領では、先端部強化のため、植物油を塗布して弱火で加熱するとありますが、他にも鉄パイプを斜めに切って穂先にすることもありました。
また、同「銃剣術指導必携」の「戦場ニ於イテ着剣銃ニ代用スベキ刺突用具」内では、「竹ヲ以テ柄ニシタル場合」として、銃剣の柄として竹を用いる場合の銃剣装着方法が記載されてます。
ちなみに竹槍の類似兵器として、竹ではなく木を用いた木槍、銃剣道の練習なんかに使われる木銃の先端を斜めに削いで穂先とした「突撃棒」なんてのがありました。
いずれの「兵器」も、使用方法は銃剣術と同様です。
みんなで竹槍
大日本帝国では、1943年(昭和18年)7月以降、「帝国在郷軍人会」を中心に国内各地で編成された「在郷軍人会警備隊」が主体となって、竹槍訓練が行なわれました。
この竹槍訓練では、陸軍戸山学校から発行された「竹槍訓練ノ参考」がメインのマニュアルとして用いられました。
ちなみに、当時、国政協力の婦人団体として「大日本婦人会」というのがあったのですが、こちらの各支部でも竹槍訓練が行なわれています。
ご婦人方が竹槍婦人部隊を結成し、在郷軍人の指導を受けて軍隊式に銃剣術(竹槍)を訓練してたわけですが、大日本帝国様、なんというか容易く正気を失い過ぎじゃないですかね。
竹槍始末
さて、沖縄や樺太では竹槍が実戦に用いられたりもしましたが、本土決戦には至ることなく日本は敗戦を迎え、竹槍が大々的に用いられることはありませんでした。
敗戦処理では、日本軍が保有していた兵器の引き渡しが行なわれましたが、その際の兵器目録にはしっかり竹槍や竹槍の穂先が含まれてたりします。
ちなみに、1945年(昭和20年)6月の本土決戦新設部隊の小銃充足率は40%でした。そんな状況ですので、いろんなものを兵器として使わざるを得なかったわけですが、これで戦わされる人々はたまったもんじゃないですね。戦時標語で「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」なんてのがありますが、いくら工夫しようが足りないもんは足りないです。
(この標語って搾取者にとっては便利な言葉ですね。日本らしいといえば日本らしい。)