Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】配給制を(ちょっとだけ)知ろう【戦時中】

前回、戦時中の共同炊事について触れました。

oplern.hatenablog.com

共同炊事は、戦時下で次第に悪化する配給状況のなか、隣組の3〜4世帯分の食事をまとめて作ることで材料や燃料の無駄を少なくしようとしたものです。

ちなみに、隣組は国民統制のための末端組織です。隣組を通して、勤労奉仕や防火訓練に参加させたり、資材を供出させたり、国債を買わせたりといったことが行なわれました。
他にも、隣組のメンバー同士で相互監視が行なわれ、国家に批判的なことを言うと密告されたりします。
隣組について、詳しくは下記の記事をご覧ください。

oplern.hatenablog.com

さて、「戦時下で次第に悪化する配給状況」などとさらりと述べたものの、配給制が行なわれたということまではともかく、その配給制が具体的にどのようなものであったかまで知っている方は少ないと思います。
…というわけで、今回記事は簡単ながら配給制についての説明です。

配給制

配給制と一口に言いましたが、これには食料品だけでなく衣料や家庭用燃料といったものも含まれています。
配給制開始時期は地域や品目によって異なるのですが、太平洋戦争が始まるころには、多くの市町村で様々な生活必需品が配給制に移行していました。

配給制は、限られた物資を公平に分けるための制度で、配給切符制とか割当配給制とも呼ばれています。
品目ごとに一人あたりとか世帯あたりでの購入量が決められ、世帯単位で交付された切符と引き換えに一回分を購入するというものでした。あくまでも購入ですので、切符を渡せば支給されるというわけではなく、切符と合わせて現金も支払って買うということになります。
一回分を購入したら、次の配給日までは、その量でしのがなければなりません。

参考まで、東京市での配給品目についていくつか例を挙げておきます。

1941年4月に配給制に移行しています。1日当たり330g(2合3勺)。これは11〜60歳までの場合で、他の年齢は1〜5歳が120g、6〜10歳が200g、61歳以上は300gでした。
年齢以外に労働内容によっても量が調整され、農作業や水産作業、機械工や紡績工などの重労働者(乙種労働者)は11〜60歳で男性390g、女性350gとなります。農繁期の農夫、大工、炭焼夫など(丙種労働者)はさらに増量を受け、11〜60歳で男性570g、女性420gです。

なお、お米の場合は、切符ではなく米穀通帳というものが渡されました。通帳には、1人1日当たりのお米の割当量、その世帯の1日当たりの割当定量が記載されており、配給日には印鑑を押してもらってお米を購入することとなります。

1942年1月に配給制移行です。1か月当たり、家族20人までは1人につき200g、20人超過1人につき150gです。

1941年11月に配給制移行。1人1日当たり丸30匁、切り身20匁でした。

マッチ

1940年6月に配給制移行。2か月当たり家族1〜6人は小型1箱、7人以上は大型1箱。

食用油

1941年6月に配給制移行。3か月当たり1人2合/2〜3人3合/4〜7人5合。

いろいろ配給

上記に挙げたもの以外にも、砂糖、木炭、卵、菓子、酒、パン、醤油・味噌、青果など様々なものが配給制に移行しています。

衣料品なんかも配給制となり、衣料切符が支給されました。衣料切符は乙種・甲種の2通りあり、乙種は市制施行の都市や6大都市隣接の町村に、甲種はそれ以外の地域に支給されています。
衣料切符は点数制で、乙種80点、甲種は100点、有効期限は満1年でした。この点数内で衣料品の購入が認められ、例えば1942年時点では長袖シャツの点数は12点、婦人スカート12点、もんぺ10点、靴下2点、作業着24点、タオル3点、背広三つ揃えに至っては50点といった具合です。
ちなみに、わずか1年後の1943年には繊維製品の不足から点数が引き上げられ、長袖シャツ15点、婦人スカート15点、もんぺ12点、靴下3点、作業着30点、タオル4点、背広三つ揃え63点になりました。
さらに1年後、1944年には繊維製品の全面的計画生産が行なわれることになり、労務者用品、衣料補修用品など消耗度の高い必需衣料品に限定の上、支給される点数が半減されます。
衣料切符制度は、敗戦後も1950年まで継続されました。

配給制のその後

太平洋戦争では、時が経つにつれ戦況が悪化していくわけですが、それに合わせて配給状況も悪化の一途をたどりました。
遅配(配給が遅れること)や欠配(配給が途絶えること)が日常茶飯事となり、配給品だけで生活することは不可能となります。
当時、1939年の勅令第七〇三号価格等統制令により物資の公定価格が定められていたのですが、この公定価格に従わない価格で売買を行なうヤミ取引で食料を調達することがが盛んに行なわれるようになりました。

配給制は、敗戦後もしばらく継続されましたが、食糧事情や経済復興とともに統制は順次撤廃され、1949年には野菜、肉、卵、魚の大半が自由販売となります。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る

戦時用語の基礎知識―戦前・戦中ものしり大百科