本日の記事は、「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズ第4弾です。
本シリーズは、日本軍による南京事件やナチスドイツのユダヤ人虐殺といった、有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていないものを取り上げてみようという企画です。
過去に取り上げた「マイナー」戦争犯罪は、以下の通り。
ちなみに当シリーズではないものの、戦争犯罪については以下のような記事も書いてます。実はこちらも割と知られてないものが多かったりします。
【太平洋戦争】ナウル残酷物語【大日本帝国】 - Man On a Mission
【太平洋戦争】ナウル守備隊 残酷物語【オーストラリア】 - Man On a Mission
【冀東政権】割と真面目に通州事件【保安隊の反乱】 - Man On a Mission
【太平洋戦争】石垣島事件【捕虜殺害】 - Man On a Mission
残念ながら、戦争・紛争は世界で(割と)頻繁に発生しており、戦争に戦争犯罪は(割と)つきもので、それ故、戦争犯罪は(割と)世に溢れかえっているのです。
さて、本日はそんな腐るほど世に溢れている戦争犯罪の中から、南米チリはピノチェト軍事政権下で行なわれた「反体制派」弾圧について。
ピノチェト政権下の「反体制派」弾圧
南米のチリは、1973年から1990年までアウグスト・ピノチェトの軍事政権下にありました。
1974年 ピノチェト
独裁者ピノチェトの誕生
アウグスト・ピノチェトは1916年に生まれ、1937年に陸軍に入りました。その後は、地道に職業軍人としてのキャリアを積み、1971年には陸軍大将にまで上り詰めています。
ピノチェト将軍が独裁者へと変貌を遂げる直接的なきっかけは、1970年に訪れました。
チリ大統領選挙で、左派政党である人民連合のサルバドール・アジェンデが当選、チリは社会主義国家への道を歩み始めます。
アジェンデは農地改革や企業の国有化を進めますが、これらの動きは、アメリカにチリ共産化の危惧を抱かせることになりました。
CIAは、当時チリの電話会社を所有していた米国企業ITT(International Telephone & Telegraph)に資金を供出させ、チリの保守派と軍部を抱き込みアジェンデ打倒工作を画策。アメリカの支援を受けて、ピノチェトはクーデターによる政権打倒を計画することとなります。
ピノチェトは、当時、陸軍総司令官の座にあったプラッツ将軍に辞職を迫って総司令官の地位を奪い、軍中枢を抱き込みました。
1973年9月11日、ピノチェト率いるチリ軍はクーデターを決行します。
これに対し、アジェンデは辞任および大統領官邸(モネダ宮殿)からの退去を拒否、自ら小銃を取ってチリ軍と銃撃戦を繰り広げました。チリ軍はモネダ宮殿へ爆撃・砲撃をも加えています。
最終的にアジェンデは自殺、また、官邸の生存者らは、そのほとんどが拷問で殺害されました。
さらには、左派市民2700名がサンティアゴ・スタジアムに連行され銃殺されています。
「反体制派」の拉致・監禁・拷問・殺害
クーデター後、ピノチェトは軍事評議会を設立、1974年には正式に大統領に就任します。
クーデター直後から敷かれた戒厳令下で、国家情報局(DINA)などが左派勢力を中心とする「反体制派」に対して、拉致・監禁・拷問・裁判無しでの殺害が行なわれました。弾圧対象には、外国人ジャーナリストやカトリック教会の聖職者なども含まれています。
後には、国際的批判から軍事裁判が行なわれていますが、アジェンデ政権を積極的に支持したという理由だけで有罪とされました。
なお、連年にわたる国連の決議の影響もあり1978年に戒厳令は解除されますが、同じ年に新憲法が公布され、労働組合や政党の自由は大幅に制限を加えられ、共産党は禁止となります。さらに、ピノチェトが1987年まで大統領の座にあることが定められました。
(ちなみに、ピノチェトはミルトン・フリードマンらシカゴ学派経済学者の新自由主義経済政策を導入しています。これは一定の成功を収め高い経済成長を達成しましたが、反面、経済格差の拡大と失業者増大を招いています。)
なお、1983年あたりから左翼過激派によるテロが頻発、1986年9月にはピノチェトの車が襲撃されたりもしています。このことからピノチェトは反体制派に対する弾圧を再開しますが、当時、ピノチェトは不正蓄財疑惑により支持が低下しており、空軍・海軍から反対の声が上がります。
1988年、ピノチェトは大統領任期の延長を図りますが、19年ぶりに実施された国民投票で大敗。ピノチェトは退陣し、エイルウィンが大統領に選出されました。
ピノチェトの影響力低下は、東西冷戦の終結によりアメリカの後ろ盾を失っていたことも原因に挙げられます。
とはいえ、その後もピノチェトは1998年まで陸軍総司令官に居座り、過去の弾圧事件調査の妨害を続けました。さらには、1998年の退役後も、終身上院議員として免責特権を得ています。
ピノチェト政権下での弾圧による死者・行方不明者は、1996年のチリ政府報告書によれば3197人とされていますが、実際にはその数倍ともいわれています。
逮捕者は政府発表で54万人、うち9000人が国外に追放されました。
また、チリの人口の1割にもなる100万人が国外に亡命しています。前述のプラッツ将軍など旧政権関係者も亡命していますが、亡命先で暗殺されています。
ピノチェトのその後
1998年、ピノチェトは病気療養のために、ロンドンの病院に入院していましたが、軍政時代に犠牲者を出したスペインの要請を受けた英国警察により逮捕されました。
チリのフレイ大統領は、チリの国内犯罪について外国に裁判権はない、元大統領には外交特権があると主張してピノチェトの身柄送還を求め、世界的な話題となります。
英国高等法院は、ピノチェトの元首としての在任中の行為は免責特権があるため裁けず、逮捕を違法と判断しました。
事件は、英国の最高司法機関である貴族院に上訴され、貴族院は最終的に拷問などは国際法上、元首の任務遂行行為とはみなされないことなどを理由として、免責特権を否定しています。しかし、2000年3月、健康上、裁判に耐えられないとして帰国を認めました。
帰国後、チリの裁判所もピノチェトの免責特権を剥奪して、殺人および不正蓄財容疑で訴追を進めましたが、既に90歳に達していたピノチェトは拘束されること無く、2006年にサンティアゴ市内で心不全のため死亡しました。
ちなみに、ピノチェト死後、妻子と関係者が逮捕され、2700万ドルの不正蓄財が摘発されています。
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
世界戦争犯罪事典