Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】ダンピール海峡の悲劇【ビスマルク海海戦】

前回記事にて、太平洋戦争における海没死と、海没に関連する人体の損傷、圧抵傷と水中爆傷について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

上記記事の最後には、船舶沈没後、生き残った漂流者も、さらなる敵の攻撃を受けて死亡することがあると述べました。
その例としてダンピール海峡での漂流者に対する攻撃を挙げたのですが、詳しく触れたりはしませんでしたので、補足として今回記事にて取り上げてみます。

ちなみに、日本側呼称は「ダンピール海峡の悲劇」、米軍側呼称は「ビスマルク海海戦」です。1943年3月2〜3日にかけて起きた戦闘でした。

背景:東部ニューギニア

ニューギニア島東部のポートモレスビーは、日本軍にとってニューギニア島ソロモン諸島一帯に広がる「南東戦線」を制圧するに不可欠な要衝でした。
また、連合軍にとっても、オーストラリア防衛のために重要な意味を持っていたのです。
ポートモレスビーには良好な港湾と航空基地があり、アメリカ軍にとっては、南太平洋を経由してフィリピンに至る航空路上の中継基地でもありました。

日本軍は、このポートモレスビー攻略を企図して「MO作戦」を実施したりもしてるのですが、今回、そのへんはすっ飛ばして、とりあえず「ダンピール海峡の悲劇」前の状況を。

1942年8月18日、日本軍は陸路によるポートモレスビー攻略を計画*1ニューギニア北岸のブナに歩兵1個連隊を基幹とする南海支隊進出させます。南海支隊はポートモレスビーを目指して山脈超えとなる前進を開始しました。
一方、当時の連合軍では、南西太平洋方面連合軍司令官だったマッカーサーにより、ニューギニアのオーエンスタンレー山脈が防衛線として定められました。これを受け、連合軍はニューギニア内陸に兵力を注入、ニューギニア東部守備のオーストラリア軍は、兵力増強までの間、遅滞行動によって時間稼ぎを行っています。
さて、南海支隊は、遅滞行動を繰り返すオーストラリア軍と戦いつつも、9月16日にポートモレスビーまで60キロのイオリバイワに到達します。しかし、この時点で南海支隊は補給不足に悩まされており、さらに、当時ガダルカナル島に海空戦力を吸い取られ、日本軍に南海支隊を支援する余力も無かったことから、大本営は南海支隊の進軍を中止させます。
ここで、南海支隊を上回る兵力となった連合軍が攻勢に転じ、南海支隊はブナに押し戻されることとなりました。

日本軍はブナを保持すべく増援を送り込みますが、連合軍航空戦力の妨害で大損害を出します。日本軍は激しく抵抗したものの、翌1943年の1月にはブナ守備隊が「玉砕」。ブナ一帯は連合軍の占領下に置かれました。
この状況に対し、日本陸軍は第十八軍を編成して連合軍の反撃を撃破することを戦略目標に設定、3個師団を海路ニューギニアに送り込みます。今回本題の「ダンピール海峡の悲劇」は、3個師団中の第五十一師団の残余部隊輸送時に起こったものです。

ダンピール海峡の悲劇

ニューギニア東部のラエには、すでに第五十一師団の一部が派遣されていましたが、連合軍がブナ地区を制圧するにおよび、いよいよラエ・サラモア地区への侵攻が現実味を帯びてきたことから、第五十一師団の残余部隊をラエに送り込むことが決定されます。1943年2月28日、駆逐艦8隻に護衛された輸送船8隻の船団が、第十八軍司令部と第五十一師団の残余部隊約7000人を乗せて、ラバウルからニューギニアのラエへ向かいました。
しかし、敵の航空優勢下における輸送船利用は危険極まりないものであり*2、この船団は1943年3月2日から3日にかけて、ダンピール海峡で連合軍(米豪)航空隊による集中攻撃を受けることとなります。
B-17、B-25、A-20、ボーファイターといった連合軍航空機の攻撃により、輸送船は全滅。駆逐艦も4隻が撃沈されました。
船舶から脱出できた生存者らは、ボートや艀、筏に搭乗し、あるいは残骸の浮遊物などにすがりついて漂流しますが、連合軍は、これらの漂流者を航空機、PTボート(魚雷艇)により攻撃します。この残敵掃討は5日に至っても続いていたようです。
「合衆国海軍作戦史」には、日本兵は降伏しなかったし、海岸は泳いでいける距離にあるし、ラエの日本軍守備隊に合流するのも防がなくちゃいけないし、とか割と言い訳がましいことが書いてあるのですが、まあ、何とも惨たらしい話ではあります。
歴史群像No.143には、ダンピールの悲劇を生き延びた岩田亀作氏へのインタビューが載ってますので、少し引用します。

「突然、ヂュヂュヂュン……と水しぶきが上がりました、敵戦闘機の銃撃です。六機くらいが旋回しながら三〜四回反復して去っていくと、あれほど浮いていた味方将兵の頭が二〜三名しか見えません。今度は海底から何かヅシーンと突き上げてくるような強い衝撃を感じました。味方駆逐艦爆雷攻撃です。その後、また、敵戦闘機の機銃掃射が浴びせられかけました」

日本陸軍はこの船団で6912人を出航させましたが、そのうち約3600人が死亡しました。118人は捕虜となり、オーストラリアの捕虜収容所へ送られています。

最後に

戦争ってイヤですね。
などと前回と同じ普通すぎる感想を漏らしてみましたが、それだけで終わるのも何なので、少し追加情報を。
「ダンピール海峡の悲劇」やガダルカナル島への輸送失敗により、輸送船の行動が危険であることが判った日本軍は、以降、駆逐艦による夜間輸送を行なう「鼠輸送」、小型舟艇による「蟻輸送」など、苦し紛れともいえる輸送方式を考えます。当然、輸送量には大きな制限が加わり、また他にも色々と問題が噴出しました。
結局、これらの輸送方式は、制空権・制海権が奪われた状況下では、有効な攻勢や防衛を行なうだけの補給は不可能であるという、単純な事実を知らしめることとなります。

そういえば、ニューギニアに送り込んだ3個師団中の残る2個師団について触れてませんでした。2個師団、第二十師団と第四十一師団は「ダンピール海峡の悲劇」後に送り込まれます。米軍の航空威力圏を避けて上陸に成功するものの、戦域から遥かに離れた地点に到着したため当面の役にはたたず、ラエ・サラモアの陥落は確定的なものとなりました。

 

 

*1:かなり無茶な計画だったのですが、これを実行することになった経緯には、〇〇〇〇参謀こと辻政信が関わっています。

*2:一応、日本軍も"可能な限り"の護衛戦闘機を付けてはいました。