Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】鴨緑丸事件【アメリカと日本】

前々回記事にて、太平洋戦争における海没死と、海没に関連する人体の損傷、圧抵傷と水中爆傷について取り上げています。

oplern.hatenablog.com

今回は、上記記事の最後で少しだけ触れた鴨緑丸(おうりょくまる)事件について。

なお、本記事は「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズの第5弾となります。ちなみに当シリーズの過去記事はこちら。

【世界のマイナー戦争犯罪】メリッソ村民虐殺事件【日本軍】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】ル・パラディ近郊での英軍捕虜銃殺【ナチスドイツ】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】グアテマラ内戦の戦争犯罪【中米グアテマラ】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】ピノチェト政権下の「反体制派」弾圧【南米チリ】 - Man On a Mission

本シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった、有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていないものを取り上げてみようという企画なのですが、鴨緑丸事件は前に取り上げたメリッソ村民虐殺事件なんかに比べれば、そこそこ知られた事件です。
マイナーそうで(メリッソ村民虐殺事件ほど)マイナーじゃない割とマイナーな事件なのですね。そのため、当シリーズで取りあげるかどうか一瞬迷ったのですが、気にしないことにしました。

どうでもいい話はさておき、鴨緑丸事件は、在留邦人や連合軍捕虜を日本へ移送するため出港した鴨緑丸が、米軍機の攻撃を受けて沈没した事件です。なにやらモヤっとするところのある事件なのですが、そのモヤっとする顛末については、次節にて。

鴨緑丸事件

米軍は、1945年1月9日にフィリピン・ルソン島への上陸を果たすのですが、それより一月ほど前の1944年14日未明、内地へ引き揚げる在留邦人や遭難船員などを乗せた鴨緑丸は、マニラを出港しました。
鴨緑丸は大阪商船が所有する7363トンの貨客船でしたが、この時は陸軍配当船*1として「最後の引き揚げ」に従事しており、3462人を満載しています。このなかには、カバナツアン捕虜収容所などに収容されていた連合軍捕虜、1619人が含まれており、日本本土と朝鮮、台湾へ移送する予定でした。
なお、第十四方面軍兵站監でフィリピンの捕虜管理責任者だった洪思翊(こう しよく)中将の指示で、都子野(としの)順三郎中尉ら7人の警備兵も同行しています。
(ちなみに洪思翊中将は朝鮮出身です。朝鮮出身者としては、李垠(り ぎん)中将と並んで最も高い階級に就いていました。余談ですが、李垠中将はもともと韓国皇太子であり、韓国併合後は王族として皇族の礼遇を受けてます。)

さて、鴨緑丸は松型駆逐艦「桃」と六十号駆潜艇に護衛されて高雄に向かいますが、出港約4時間後の8時50分ごろ、米航空機からの銃爆撃を受けます。
鴨緑丸は自衛用の武装で応戦しつつスビック湾に退避しますが、乗船者を陸上で待機させている途中、翌15日にも朝から攻撃を受け、ついには船室に数発の直撃弾を受けて炎上、約300人の捕虜が爆死しました。

鴨緑丸はスビック湾オロンガポ港に回航し、攻撃を生き延びた生存者らは上陸します。鴨緑丸はその後さらに攻撃を受け、遂には沈没しました。
連合軍捕虜たちは上陸後、テニスコートに集結し待機させられていますが、5日後には、トラックと鉄道で北サンフェルナンドに移動。そこで新たに配船された江ノ浦丸とブラジル丸に搭乗し、台湾へ向かうこととなります。
ところが1月9日には、高雄港で再び米軍機の空襲を受け、江ノ浦丸が沈没、692人の捕虜が死亡しました。
(ブラジル丸は、581人を乗せて門司に到着しています。)

戦後の裁判

この事件は、戦後にBC級法廷で裁かれることになりました。
他の事件とあわせて責任を問われた洪思翊中将は1946年9月にマニラ軍事法廷にて死刑宣告、さらに都子野中尉も1947年5月に横浜軍事法廷で絞首刑を宣告されています。

ジュネーヴ捕虜条約第七条によれば、捕虜を危険地域に置かないため、「捕獲後成るべく速に」戦闘区域から十分離れた地域の収容所に後送することとなっているのですが、1944年後半は、航空優勢海上優勢を喪失し撃沈の可能性が高いなか移送しているケースが多く見られました。鴨緑丸も危険な状況下で移送を行ったことになります。
確かに理屈のうえでは国際法違反と言えなくもないのですが、感情的にはモヤっとしたものを感じる方も少なくないのではないでしょうか。

なお、危険状況下での移送以外に、捕虜の扱いについても問題がありました。生存した捕虜が裁判に出廷しているのですが、その際、船倉の混雑がひどく、温度が華氏120度(摂氏だと約49度)にも達したとか、上陸後の食糧不足だとかを非難しています。
また、テニスコートに集結させられた捕虜のうち15人が日本兵に殺害されており、都子野中尉の処刑は、これを黙認または協力したとされたためです。

最後に

連合軍捕虜の移送は、1942年から1944年まで年に1万人を超えるペースで実施され、全期間で計3万7386人に達しました。
そのうち、1万844人が海没死しており、これは総数の29%に当たります。
捕虜は下部船倉に詰め込まれて脱出困難な状態となっていることも多く、このため、船の沈没時、脱出できずに全員死亡したケースも珍しくありません。
出廷した生存捕虜も、船倉の混雑について非難していますが、これは、以前の記事で触れた日本軍兵員の輸送と同じ状況と言えます。
日本兵員の輸送でも、多数の兵員を船倉に押し込めており、温湿度上昇による熱射病が多発したり、沈没時に脱出困難という状況に置かれています。)

つまるところ日本軍は、自国の兵員も連合軍捕虜もまっとうな扱いをしなかったわけですね。
たまに、この手の「捕虜も日本兵も同じ扱いだった」とかいう話を声高に訴える人がいるのですが、その内実は、単に「同じく酷い扱いだった」だけということがままあったりしますので、注意が必要です。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:徴用はされてないものの、軍事輸送に協力・従事する船。