Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】日本軍の輸送船生活【ヘルシップ】

前回、鴨緑丸事件について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

当該事件は、連合軍捕虜を乗せた陸軍配当船*1の鴨緑丸が、航海中に米軍航空機の攻撃を受けて沈没し、搭乗捕虜も犠牲となった事件です。
鴨緑丸事件では、戦後、日本軍の責任者らが裁判にかけられ死刑となりましたが、その際の法廷にて、生存捕虜らが捕虜の扱いについて非難しています。
いわく、船倉のスペースに合わない数の捕虜が詰め込まれて混雑がひどく、温度が華氏120度(摂氏だと約49度)にも達したとか。

前回も書きましたが、これは捕虜だけがこのような扱いを受けたわけではなく、日本軍の兵員も同様の目にあっていました。
大日本帝国様は割と国民を人間扱いしない傾向があったりしますので、日本兵らも当然ひどい目にあうことになります。これは兵員輸送においてもご多分に漏れず、多数の兵員を船倉に押し込めた結果、異常な温度/湿度上昇により熱射病を引き起こして死亡する兵が多発したり、沈没の際の脱出に支障を来したりしました。

今回は、この兵員らの輸送についてもう少し詳しく取り上げます。

*ふねのなかにいる*

前に、海没死とか水中爆傷について取り上げた記事でも書いたのですが、太平洋戦争の日本軍では、船舶による兵員輸送中に、連合軍の攻撃を受け撃沈される艦船が多く出ています。

艦船の沈没に伴う死のことを海没死といいますが、海軍軍人・軍属が18万2000人、陸軍軍人・軍属が17万6000人で、実に陸海軍併せて35万8000人が海没死しました。

兵員輸送に用いた船舶の大部分は徴用した貨物船だったのですが、船倉を改造した狭い居住区画に多くの兵員を押し込めています。
船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」によれば、軍隊輸送では坪当たり3人か4人程度が通常であるものの、熱帯地の輸送においては坪当たり2.5人を理想とする、とされています。
しかしながら、船腹の関係や作戦上の要求から、坪当たり5人に達することがあると指摘されており、完全武装の兵士5人が一坪に押し込められては、横になることもできません。
ついでに、甲板への出入り口付近には涼を求めて古年兵がたむろしており、初年兵らは甲板に出ることもできない、なんてこともあったようです。

前述の通り、船倉の異常な温度・湿度の上昇から、自由に甲板に出られない兵らが、熱射病を引き起こして死亡するケースもありました。
軍医だった福岡良男氏によるフィリピン行きの輸送船の回想によれば、こうして死亡した兵は水葬にされたようです。

ともあれ、このような過重積載は、多数の船舶喪失も原因の一つでした。
太平洋戦争開戦時の日本海運用船舶の船腹量は639万7000総トンでしたが、1944年末には152万6000総トンまで減少しています。しかも、そのうち運行可能なのはわずか31万総トンにすぎませんでした。

輸送船は地獄船

さて、日本軍の劣悪な輸送船生活について、少し具体例を挙げておきます。
さる書籍から、1944年当時14歳の軍属であった佐藤鉄雄さんの証言を中心に見てみましょう。

佐藤さんは、官立無線電信講習所関東板橋支所を出て、すぐ南方軍を志願しました。
佐藤さんら13〜16歳の少年240人は、まず神奈川県相模原の東部第八八部隊で2ヶ月間の訓練を受け、その後、「吉野丸」に乗りこみます。「吉野丸」は9000トンの貨客船で、18隻の船団を組んで、7月13日に福岡県の門司を出港しました。

「船尾に近い甲板下の倉庫が、私達の船室でした。上下二段のカイコ棚といった感じで、当時の身長145センチの私が屈んでも、頭をぶつける狭さでした。一畳(1.65平方メートル)当たり六人ぐらいの割で詰め込まれたから、頭と足を互い違いにしても全員が横になれません。はみ出した者は、通路で膝を抱えて眠っていました。」 

 少年とはいえ、坪当たり5人どころか、なんと一畳6人だそうです。大日本帝国様はいつもこちらの予想を超えてくるので困るのですが、ともあれ、少し証言について補足しておくと、カイコ棚というのは何層かの棚状に設けられた寝台のことです。
さて、乗り込んでからは、ほぼ毎日、非常時の退船訓練があったそうですが、船内放送で繰り返された注意事項では、どんなに暑くても軍服を着て、その上にチョッキ式の救命胴衣、米五合などが入った雑のうや水筒、ナイフとロープ、穴を開け細紐を通した鰹節を付けろとされていたようです。効果があるのか不明ながら、腰ベルトにはフカよけの赤い六尺ふんどしも着用しろ、なんて指示も。
全部をつけると、暑くて重くて苦しい三大苦にみまわれるのですが、泳ぎが不得手な佐藤さんらは守らざるを得なかったとか。

「おまけに水は1人1日、水筒に半分しか支給されません。水が足りず、起重機の油まじりの冷却水を飲んだりしましたから、半分以上が下痢です。ところが甲板に作られた便所は、10人も入れば一杯。汚い話ですが、みんな甲板からお尻を突き出し用を足しますから、船腹は汚れ、"ああ堂々の……*2"のイメージには、ほど遠い汚さ、臭さでした」

ちなみに、連合軍捕虜の輸送なんかでは、甲板へ出られずバケツがトイレ代わりというケースも。

吉野丸の撃沈

さて、吉野丸は高雄経由でマニラへ向かい、7月30日夕にはバシー海峡に入りました。この時、海は大荒れでしたが、敵潜水艦が跋扈するバシー海峡を通るため、あえて時化に乗じて敵潜水艦をかわそうとしたようです。しかしながら、その甲斐もなく船団は連合軍からの攻撃を受け、7月31日未明、吉野丸は撃沈されてしまいます。佐藤さんは36時間にも及ぶ漂流の末、海防艦に救助され生き残ることができました。
今回記事の主題である「輸送船生活」からは脱線になりますが、非常に生々しい証言を残されてますので、その一部を取り上げておきます。

「あの晩は珍しく涼しく、窓からの風が気持ちよくて、ついうとうとしていました。何回目かのうとうとの時、ドドーンッと魚雷の爆発音が北。ザバーッと物凄い水音がして、体が宙に浮き、床に叩きつけられました。木組みのカイコ棚が分解したのです。そこへまたドドーン、ドドーンです。船はまず右舷の方へ傾いたので、人をかきわけ左舷側へ。次いで左舷へ傾きだしたので、今度は右舷側へ。泳ぎが得意でない私が躊躇っているうち、ザバァーッと大波が来て、気がついた時は海中でした。何かに頭をぶつけ、意識が戻ったのですが、それは船に幾つも積んであった救命筏でした。むしゃぶり付いたですよ」

佐藤さんは、時化のなか夜明けを迎えます。沈没直後、数十人いた筏に縋る人は、大波で筏がひっくり返るたびに何人かずつ波間に消え、この時には15人ほどに減っていたそうです。

「午前中にもポツリ、ポツリと人は減ってゆき、昼ごろには八人だけになってしまいました。その中に少年軍属仲間は、一人も残っていませんでした。」

かわりに増えたのが、死体をはじめとする浮遊物でした。海の漂流物は一カ所にあつまる傾向があり、筏も、生きた人間も、遺体も固まって漂流することとなります。

「遺体は二〇、いや、三〇体は寄って来た。その中に夏の制服らしいネズミ色の服を着た従軍看護婦さんの遺体が五人ほど混じっておられた。波間に黒髪を長く漂わせて……。同じ船団の『万光丸』という輸送船に、戦地へ向かう従軍看護婦さんが乗っていたと聞きましたが、その一部の方だったと思います。何故か兵隊さんの遺体は皆うつ伏せなのに、看護婦さんは皆、仰向けで、皆さん、眠っているような死に顔でした。それはせめてもの救いでしたが、なにしろ時化の海でしょ、波に乗ってバァーンと私に飛び掛ってくるんです。硬直した手や足が当たり、髪の毛が僕の顔を覆いました。生まれて初めて見る死体ですから、怖かった。『嫌だな』と僕は声に出して言いました。泣きながら『どうか、僕から離れて下さい』と訴えました。でも、私に当たった遺体は二重、三重に固まって、離れようとしません。僕は泣いて叫びました。『どうか僕を助けて下さい。僕は絶対、あなた達のことを忘れませんから、僕を海から出して下さい』。何時間も、頼み続けました」

佐藤さんがすがっていた筏は、材木を結束していたシュロ縄が擦りきれて分解、筏がバラけるにつれて、遺体も散っていきます。佐藤さんは、輸送船から流出したらしい木製階段につかまり漂流を続けます。
一度、救助の輸送船が接近するものの、波が高くて救命ボートが降ろせず、半時間ほど佐藤さんら8人の周りを回った後、姿を消しました。
佐藤さんはいつしか意識を失い、幻覚を見ます。

「墨絵のように黒ずんだ吉野丸が目の前に現れ、『オーイ、佐藤、そんなところにおらんで、こっちへ来い』と、船の上からしきりに呼ぶのです。私は左舷デッキに手を掛け、上がろうとするが、体がいうことをききません。必死で這い上がろうとすると、甲板の奥の方に坊さんが姿を見せまして『来ちゃあいかん』と言う。なんでいかんのだ、なんで僕だけ海の中に、と泣きました。その自分の泣き声で、ハッと意識を取り戻しました。亡くなった人は、きっとあのような時に甲板に上がった人なんでしょう」

幻覚から覚めた佐藤さんの目に海防艦が映ります。佐藤さんは、漂流36時間の後、ようやく救助されました。
(ちなみに、当時の海防艦は、海上護衛の主力として活躍した小型艦です。)

最後に

上記、佐藤鉄雄さんの体験が掲載されている「さる書籍」は、以下の本です。

彷徨える英霊たち - 戦争の怪異譚

副題「戦争の怪異譚」とありますが、いわゆる"オカルト本"ではありません。
著者が長く続けている太平洋戦争の取材において、戦争体験者からの証言に不可思議な話が幾つもあることを受けて書かれたものです。

戦争について取材する方や、戦没者の遺骨収集に携わる方々は、こういった不可思議な話に出会うケースが割とあるようで、戦没者の遺骨収集に従事して数々の遺骨鑑定を行ってきた人類学者、楢崎修一郎氏も、著書「骨が語る兵士の最期」で不思議な体験について書かれています。

私はわりかしオカルト関係にも興味があり、以下のような記事も過去に書いてるのですが、上記は、こういったオカルト趣味とは色合いの異なるものですね。

oplern.hatenablog.com

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私自身、中学生のころ、不思議といえば不思議な出来事にあったこともありますが、これは太平洋戦争とは関係ない出来事でした。
(親父や叔父を中心に、親戚一同が遭遇した不思議な出来事でした。私は"主役"ではありません。あまり言いふらすようなことでも無いので、内容については控えさせていただきます。)
そんな経験もあって、私はこういった不可思議な話について、全面的に信じはしないけど否定しきれないということで判断を「保留」にしています。

さておき、今回の記事は最後で毛色の異なる話になってしまいましたが、実は、佐藤さんの話には後日談があります。せっかくなので、次回はその後日談について取り上げたいと思います。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実

彷徨える英霊たち - 戦争の怪異譚

 

 

*1:徴用はされてないものの、軍事輸送に協力・従事する船。

*2:戦時歌謡「暁に祈る」の歌詞。"ああ堂々の輸送船 さらば祖国よ栄えあれ"という一節。