Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本軍】陸軍兵士の給料一覧【上等兵・一等兵・二等兵】

少し前より、日本陸軍の給料についての記事を書いています。今まで、将校・下士官准士官の給料について取り上げました。

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今回は遂にというか、ようやく兵士の給料についてです。

日本陸軍兵士の給料

給料一覧を載せる前に、前提条件や注意点をいくつか。
今回掲載の給料は、今までの記事と同様に1934年(昭和9年)のものとなります。
昭和9年は、昭和ひとけた前期のデフレが終わり、かつ、日中戦争開戦(昭和12年)より前という、「特殊な時代背景」となる要素が少ない時期であることが選定の理由です。

また、以下に掲載する給料は月額です。これとは別に、憲兵上等兵に付与される憲兵加俸とか、同じく憲兵上等兵が兵営外に居住する場合に受ける営外加俸なんてものがありますが、以下の一覧ではこれら加俸は載せていません。

兵士 給料一覧

以下、昭和9年時点の給料(月額)一覧です。
(なお、兵の階級についてはこちらをどうぞ。)

伍長勤務上等兵:7円

上等兵:6円40銭

一等兵二等兵:5円50銭

教化兵:2円75銭

現代に換算すると…

今までの記事でも説明した通り、当時の物価を現代価値に換算するには、2000倍にするというのが一応の目安です。
例えば、当時のコーヒー1杯は10銭ほどですが、これを2000倍すると200円となります。他の具体例としては、アンパン5銭が100円、米10キロ2円が4000円、文藝春秋とかの総合雑誌50銭が1000円といった具合です。

上記にならって、兵士の給料を2000倍すると、伍長勤務上等兵(後に兵長)が14,000円、上等兵が12,800円、一等兵二等兵は11,000円となります。まあ、小遣い程度ですね。

兵営生活では、居住はもちろん食事や被服、生活に必要な物品なんかも支給されますが、全てが官給品で賄われるわけではなく、歯磨き粉や歯ブラシ、カミソリ、石鹸などは自費で購入しなければなりません。ちなみに、ふんどしも支給されず私物です。他にはがきや切手なんかも私費購入でした。さらに兵士も人間ですので、辛いことばかりの兵営生活において、わずかながらの楽しみとして嗜好品も欲しいところです。
(これら日用品や、たばこ・菓子などの嗜好品は酒保(兵営内におかれた売店)で販売されていました。)
上記を踏まえると、1ヶ月で1万円ちょっとというのは余裕のある金額とは言えません。そのためか、実家の父兄に金をせびる兵もいたようです。
1913年(大正2年)に出版された「入営者準備教育」という"入営マニュアル本"に、入営した子弟が送金を求めてきても金を送ってはならない、なんてことが書かれています。入営マニュアルに注意事項が乗っちゃう程度には、そういう兵士がいたということでしょうね。

よーし、パパ入営しちゃうぞー

ところで、金をせびることが出来るくらい実家の家計に余裕のある兵士はよいのですが、家計に余裕がないどころか、兵役により一家の主要な働き手を取られて、困窮する家庭も少なくありませんでした。
上記の給料一覧を見てわかる通り、兵士の給料はごくわずかで、実家の生活費をまかなえる額の仕送りなんてできません。
一応、1917年(大正6年)には「軍事救護法(後「軍事扶助法」*1)」という法律が制定され、これにより留守家族1人につき1日15銭まで(1家族最大60銭まで)と、少額ながら生活救護が開始されました。
しかし、当時は今と比べ物にならないくらい体面が大事な「ムラ社会」であり、「貧民」と見られることを嫌がって受給申請を行なわない留守家族がかなりいたそうです。
公的生活救護の受給者に対する偏見も根強く、困窮者を「惰民(だみん)」と呼ぶ*2こともありました。そのため、今の生活保護法にあたる「救護法*3」なんかでも申請者はあまり多くありません(昭和8年時点で20万人以上)。
(おっと、「当時は」なんて言いましたが、現代に至っても日本は、生活保護受給者を叩いちゃう人*4が大勢いる国でしたね。これは失礼。)

教化兵

上記の給料一覧にて、最後に「教化兵」という言葉が登場しています。この区分は、当ブログの陸軍の階級の記事なんかにも出てきません。
あまり知られていないものだと思うので、最後に簡単ながら説明など。

教化兵は、1923年以前は懲治卒と呼ばれていたものです。
教化兵は陸軍教化隊(1923年以前は陸軍懲治隊)という部隊の兵士なのですが、この部隊は犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた部隊でした。
ちなみに、陸軍教化隊令によれば陸軍教化隊は、処分を受けた兵卒でありながらも「容易ニ改悛ノ状ナキ者ヲ収容シ之ヲ教導感化スル所」とされています。社会主義者と思しい者が「思想要注意兵」として収容されるケースもありました。

 

 

*1:1937年(昭和12年)に「軍事扶助法」となりました。ちなみに、「救護」から「扶助」に変わった理由の一つは、「救護」されるのは不名誉だと感じる人が多かったから、ということです。

*2:困窮=自己責任にして済ましちゃう風潮は昔からあったわけですね。貧困は社会問題である、という考え方が日本で普及したのは大正時代ですが、残念ながら根付くことはできなかったようです。そういえば、生存権というか民主主義の考え方もあまり根付いてませんね。民主主義をただの多数決と思っちゃってる方も多くいるようです。余談ですが、近世史家の木下光生氏は、江戸時代の村における困窮者扶助が、対象村民の名前の掲示や服装の制限といった屈辱的な扱いを伴う、一種の懲罰と引き替えに行なわれていたものであることを指摘しています。

*3:「救護法」は1929年(昭和4年)に制定されましたが、緊縮財政のため実施が遅れ、昭和7年度にようやく実施されています。

*4:自分(国民)の権利を自分で否定しちゃうという驚きの行動ですが、まあ、こういう人は長い人生においても、自分が働けなくなったり、生活に必要な収入が得られなくなる事態は絶対にないと判断しているんでしょう。どういった根拠かはわかりませんが。