本日の記事は、「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズ第6弾です。
本シリーズは、日本軍による南京事件やナチスドイツのユダヤ人虐殺といった、有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていないものを取り上げてみようという企画です。
ちなみに、過去に取り上げた「マイナー」戦争犯罪は、以下の通り。
【世界のマイナー戦争犯罪】メリッソ村民虐殺事件【日本軍】 - Man On a Mission
【世界のマイナー戦争犯罪】ル・パラディ近郊での英軍捕虜銃殺【ナチスドイツ】 - Man On a Mission
【世界のマイナー戦争犯罪】グアテマラ内戦の戦争犯罪【中米グアテマラ】 - Man On a Mission
【世界のマイナー戦争犯罪】ピノチェト政権下の「反体制派」弾圧【南米チリ】 - Man On a Mission
【世界のマイナー戦争犯罪】鴨緑丸事件【アメリカと日本】 - Man On a Mission
戦争には(割と)戦争犯罪がつきものですが、これは国や民族に関係なく普遍的なものです。もちろん、どこぞの方々が言うように日本だけはキレイな軍隊、キレイな戦争なんてこともありません。
(どういう思考回路だと、日本だけは特別という結論になるのかわかりませんが…。)
さておき、今回の記事はイギリスのインド統治におけるインド市民虐殺事件。アムリッツァル事件(アムリットサルとも)を取り上げます。
アムリッツァルの虐殺
アムリッツァル事件は、1919年4月インドのパンジャーブ州アムリッツァル市(Amritsar)でインド人民衆約400人が、イギリス軍により虐殺された事件です。
この事件の背景には、1919年3月にインド政庁が成立させた「無政府・革命分子犯罪取締法」、通称ローラット法があります。
ローラット法は、第一次世界大戦後のインド内の反英運動を弾圧するために制定されました。ちなみに、「ローラット」は1917年にインドの治安状況およびその対策の調査を行った委員会の委員長の名前です。
ローラット法は、逮捕状なしの逮捕、普通の裁判手続抜きの投獄などが可能という、その酷さにおいてどこぞの傀儡国家の治安維持法を連想させる法律でした。
(あ、けど、上記の傀儡国家はその場で射殺(即決処分)OKでしたので、そっちの方が上ですね。日本スゴい。)
閑話休題。
ローラット法は、法案として提出された段階からインド内での激しい反対運動を引き起こします。1919年4月6日には、ガンディーの呼びかけでハルタール((店舗や工場などの全面的作業停止)が全国で実施されました。
1919年4月13日、パンジャーブ州アムリッツァル市のジャリアンワーラーバーグという広場で抗議が行なわれます。
同日はこの地方の春の収穫祭にあたり、同市のみならず近郊農村から多くの人がアムリッツァルに集まっていました。
そのような中、ジャリアンワーラーバーグ広場で、ローラット法に象徴されるイギリスの弾圧政治に対する抗議も行なわれたのですが、英軍ダイヤー代将は、これを集会禁止を犯して政治集会を始めたと判断。ジャリアンワーラーバーグ広場での抗議にはおよそ2万人が参加していましたが、これに対し、150人の兵士を展開して事前警告を与えることなく発砲命令を下します。
非武装の市民らは十数分間にわたって銃撃を浴びせられ、その結果、後日のイギリス側公式発表によれば、男女併せて379人が死亡、負傷者は1200人以上に達しました。
この事件は、イギリスの厳重な報道管制のため外部世界に伝わるのに時間がかかりましたが、パンジャーブ州の中心地アムリッツァルで起きた非人道的行為が知られると、インドはもちろん、イギリス本国の世論も強く刺激することとなります。イギリス側とインドの国民会議派は、それぞれこの事件に対する調査委員会を設け、事件の究明に当たりました。
アムリッツァル事件は、植民地支配の実態をインド内外に見せつけることとなり、ガンディー指導の第一次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗)運動とよばれる反英反帝国主義闘争を進展させるきっかけとなります。
また、事件の影響により、数多くの学生や知識人が次々とインド独立運動に参加したのですが、その中には、イギリスで弁護士資格を得て帰国したネルー(インド独立後の初代首相)も含まれていました。
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
世界戦争犯罪事典