Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【マイナーじゃなくなった戦争犯罪】バンカ島事件【期間限定】

最近…といってももう1週間ほど経つのですが、BBCニュースで「バンカ島虐殺事件」について報じられました。

www.bbc.com

バンカ島事件は、1942年2月、シンガポールから脱出したオーストラリア陸軍の看護婦らが、インドネシア西部バンカ島のビーチで日本兵に殺害された事件です。

当ブログには「世界のマイナー戦争犯罪」という、あまり知られていない戦争犯罪を紹介するシリーズ記事があります。バンカ島事件も、そのうち当該シリーズで取り上げようなんて考えてたわけですが、その前に、新たな情報付きで知らしめられた形になりました。

「新たな情報」というのは、日本軍による銃撃を受けた看護婦の一団(21名死亡、生存1名)が、その前に性的暴行を受けていたのではないか、ということです。
(「新たな情報」と言ったものの、実は過去にも同じ疑いをもたれてはいます。今回は証言記録が一部抜き取られていたことや衣服の補修跡などを調査・検証したとのことです。詳細については、上記BBCニュースの記事をご確認下さい。)

さて、今や「マイナー戦争犯罪」とはいえなくなったバンカ島事件ですが、継続的に取り上げられでもしない限り、特別興味がある方以外には程なく忘れ去られていくでしょう。
(タイトルの「期間限定」は、この記事が期間限定という意味ではありません。)
バンカ島事件は日本が加害者となった戦争犯罪であり、さらに戦争犯罪というのは人類全体にとっての問題でもあります。これに誠実に向き合うのは当然だと思うのですが、残念ながら、最近は忘れ去るどころか、「ぼくのかんがえたすばらしいにほん」に都合の悪いことは無かったことにしようという方が増えているようです。
(昔からそういう人は結構いたのですけど、最近、増えすぎじゃないですかね……。)

そういう状況なので、今更だろうがかぶってようが取り上げるのも無駄ではないと開き直って、本日記事はバンカ島事件について語ります。どうでもいいですが、マイナーじゃなくなったので「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズではありません。
ちなみに、「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズには以下の記事がありますなどと少し宣伝してみたり。

【世界のマイナー戦争犯罪】メリッソ村民虐殺事件【日本軍】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】ル・パラディ近郊での英軍捕虜銃殺【ナチスドイツ】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】グアテマラ内戦の戦争犯罪【中米グアテマラ】 - Man On a Mission

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【世界のマイナー戦争犯罪】万県事件【イギリス】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】陽高事件【日本軍】 - Man On a Mission

バンカ島事件

先述の通り、バンカ島事件は、1942年2月、シンガポールから脱出したオーストラリア陸軍の看護婦らが、インドネシア西部バンカ島のビーチで日本兵に殺害された事件です。
(なお、当ブログでは従来知られていた事項についてのみ取り上げます。)

1942年2月15日、シンガポールを守備する英豪軍は日本軍に降伏しますが、その直前に民間人と一部の兵士が船で脱出しました。豪州陸軍の看護婦たち約140人は11日から12日にかけて脱出しており、当時26歳のブルウィンケル(虐殺時の唯一の生存者)を含む65名の看護婦は、最後の便であるヴィナー・ブルック号に乗り込みます。乗客は婦女子を中心に300名ほどでした。
しかし14日昼すぎ、バンカ島沖を航海中の同船は、飛来した9機の日本軍機から攻撃を受け沈没します。乗客の多くは泳いで海岸を目指し、ラジ・ビーチにたどり着きました。この際65名の看護婦のうち、12名が溺死しています。
なんとかラジ・ビーチに泳ぎ着いた遭難者グループにも、次なる不運が待ち受けていました。

2月15日朝、日本陸軍第三十八師団歩兵第二百二十九連隊の折田部隊(バンカ島攻略部隊)がバンカ島ムントクに上陸します。
(ちなみに、折田部隊の兵力は、歩兵第二百二十九連隊第一大隊長の折田大尉の指揮する同大隊(第一、第二中隊基幹)、連隊砲、工兵各1小隊、高射砲1中隊、第三十三飛行場中隊など。)
第三十八師団の作戦計画では、同部隊は上陸後ムントク飛行場を攻略し、その後、付近を掃討。大隊は1中隊を残しパレンバンに前進。残置した1中隊は、バンカルピナンを占領するということになっていました。
実際の行動では、2月15日午前8時30分頃、ムントク市および飛行場を占領、18日にはバンカルピナンを占領し、19日までに全島を制圧。竹内第一中隊長以下をバンカ島に残置し、2月23日から逐次ムントク発パレンバンに向かっています。

さて、ラジ・ビーチにたどり着いた遭難者グループは、日本軍に投降を申し入れますが、まもなくやってきた将校が引率する15名の兵士は、まず男子の投降者をビーチに並べて射殺しました。
ついで、赤十字マークをつけた制服を着用していた22名の看護婦を海中へ追い込み、射撃を加え殺害します。唯一の生存者であるブルウィンケルは、この時、腰に貫通銃創を受けますが、ジャングルにはいこんで生き延び、10日後に日本軍へ投降、捕虜となりました。

65名の看護婦のうち、先述の通り12名は溺死、21名は殺害、残る32名(ブルウィンケル含む)は捕虜となっています。
捕虜となった看護婦は終戦まで収容所ですごすこととなりますが、栄養失調とマラリアで次々に倒れ、生存者は24名でした。
また、日本軍は、彼女たちに慰安婦にならないかともちかけています。これに対して、看護婦らは団結して抵抗、かろうじて食い止めたそうです。しかし、一部抑留女性のなかには、生活のため体を売るものもいたとのこと。

戦後、オーストラリア軍事法廷はこの事件の調査を始め、歩兵第二百二十九連隊長であった田中良三郎(当時大佐)を逮捕しますが、兵士の多くはガダルカナル戦で戦死して証言者がなく、責任者と推定された折田第一大隊長も1948年9月に獄中で自殺したため、東京裁判に証人として呼ばれたブルウィンケルの証言にもかかわらず、起訴に至らぬままに終わりました。

ちなみに、折田は香港攻略戦における英陸軍野戦病院スタッフ・患者殺害、および看護婦を強姦した事件の責任者でもあるようです。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典