Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】パラワン島の米兵捕虜殺害【日本軍】

以前、バンカ島事件について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

上記記事にて、「ぼくのかんがえたすばらしいにほん」に都合の悪いことは無かったことにしよう、なんて連中が増えていると書いたのですが、やはりというかなんというか、順当に(?)同事件を捏造ということにしたい方々があれこれしょうもないことを並べ立てているようです。

いくら無かったことにしようとしても、日本軍は南京事件のような有名どころから名もない戦争犯罪まで、あちこちで大量にやらかしちゃってるのでキリがないと思うのですが、この手の話が表に出るたんびに捏造捏造と喚き立てるつもりなんでしょうか。そのつもりなら大変ご苦労なことです。
最近は、「南京事件通州事件をモデルとした捏造」だなんて妄言を吐いてる方も結構いるようですね。

日本の戦争犯罪の中でも、推定犠牲者数が数万〜十数万*1というスケールの南京事件は割と別格な方ですが、数十人〜数百人レベルの「やらかし」なんかだと、さほど珍しくないというか結構な数があります。
ほんの一部にすぎませんが、参考まで、当ブログの過去記事から該当するものを幾つか挙げておきます。

【太平洋戦争】ナウル残酷物語【大日本帝国】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】メリッソ村民虐殺事件【日本軍】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】陽高事件【日本軍】 - Man On a Mission

【世界のマイナー戦争犯罪】香港戦における英軍捕虜処分【日本軍】 - Man On a Mission

無論、この手の戦争犯罪は日本だけでなく、世界各国、あちこちの国がやらかしてます。戦争に戦争犯罪は(割と)つきものなのです。
戦争犯罪というのは人類全体にとっての問題であり真摯に受け止めるべき事柄かと思うのですが、戦争も軍隊も「娯楽コンテンツ」として消費するだけの人が増えている昨今、そんなことは言うだけ無駄かもしれませんね。

さておき、せっかくなので今回は、日本軍があちこちでやらかした中から、世界のマイナー戦争犯罪*2シリーズ第11回目として、パラワン島の米兵捕虜殺害について取り上げます。

なお、「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようというものです。
取り上げた戦争犯罪が「マイナー」かどうか毎回迷ったりするのですが、そこを気にし始めるとシリーズ名を変えるか、本当にごく一部の事件しか取り上げられなくなるので、あまり深く考えないようにしてます。ちなみに、なぜこんなシリーズ名にしたかというとただの勢いです。
あと、「世界の」とか言いつつ日本の登場頻度が高いようですが、これは私の趣味範囲によりますので致し方ないものだと思って下さいごめんなさい。

パラワン島の米兵捕虜殺害

さて、本題のパラワン島における米兵捕虜殺害について。

パラワン島はフィリピン南西部に位置する、北東から南西方向に横たわる細長い島です。全長410km、最大幅39km、最狭部の幅は5kmとなっています。

1944年12月13日、太平洋戦争レイテ戦の末期に、連合軍大船団のミンダナオ海西航が発見されました。これを受け、パラワン島の日本軍守備隊は、敵上陸に備え配備についてます。

当時、パラワン島のプエルトプリンセサにあった飛行場大隊は、米軍機の空襲にさらされた飛行場の保守作業に約150人の米兵捕虜を使役していました。

1944年12月14日正午頃、米兵捕虜らは、作業を停止し居住区に帰るよう指示されます。さらに午後2時頃、米軍戦闘機2機が飛来するとの理由で、最近建設したばかりの3つの地下壕へ入るよう命令されました。
これにより、米兵捕虜全員が地下壕へ入ったのですが、その後、小銃および機関銃で武装した5、60人の監視員が地下壕入口を包囲。手榴弾とガソリンの入ったバケツを投げ込み火を付けました。壕から逃れようとした者は射殺または刺殺されています。
米兵捕虜138名が殺害されましたが、12名は逃亡、付近のゲリラに助けられ、かろうじて米軍支配地にたどり着きました。

この事件は、戦後マニラ、ついで横浜の米軍事法廷で裁かれることとなります。
15人が起訴され、1948年10月から11月の判決で、現場の憲兵曹長が絞首刑(後に30年の有期刑に減刑)、伏見鎮大佐(第十一航空地区隊長)が禁錮10年、小川亨中尉(第百三十一飛行場大隊整備中隊長)が禁錮2年に処せられました。また、当時ルソン島にいた第二飛行師団長の寺田済一中将が監督責任を追求され無期禁錮とされ、さらに同参謀長および参謀らも長期刑を科せられています。
なお、訴追の理由には、前述の捕虜虐殺の他、1944年10月から1945年2月にかけての捕虜虐待、軍事目的の使役、米軍機爆撃から捕虜を守る措置を取らなかったことが挙げられています。

余談というか、ついでなのですが、プエルトプリンセサの飛行場大隊のその後についても少々。
1945年2月末、パラワン島プエルトプリンセサの第百三十一飛行場大隊を基幹とする日本軍部隊は、米軍の上陸侵攻を受けることとなります。約1週間ほどの陣地戦闘を行なうも、3月7日頃にはプリンセサ平地から駆逐されました。この後は組織的戦闘を行なうこともできず、残余者が山中に食糧を求めて彷徨するという状況に陥っています。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:この数字は、私が「真面目」な研究と判断したものから持ってきてますので、あしからず。

*2:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。