Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦後日本】日本軍憲兵と公職追放【GHQ】

前回、日中戦争・太平洋戦争期の日本軍憲兵による戦争犯罪について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

今回も日本軍憲兵の記事ですが、戦争犯罪からは離れた話となります。
当ブログには、日本軍憲兵関連の記事がそこそこあったりするのですが、以前に書いた記事では、終戦間際に行なわれた憲兵の大増員について少し触れました。

oplern.hatenablog.com

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その大増員との関連ははっきりしないものの、最近ある書籍にて、終戦間際に短期間(1ヶ月半)憲兵となりそれが災いして公職追放されてしまったという証言を見つけましたので、紹介します。

公職追放とは

まずは、簡単ながら前提知識となる公職追放について。
日本における「公職追放」は、一般的に1946年(昭和21年)1月4日の連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAP)発出の覚書*1に基づく戦争犯罪人職業軍人大政翼賛会幹部などの公務からの罷免、官職からの排除を指しています。

追放の対象者はA項からG項まで分類され、今回取りあげる憲兵はB項の該当とされました。
こちらのサイトに日本管理法令研究会編「日本管理法令研究」より転載された和訳がありますので、少し引用します。

B 本職の陸海軍職員、特高警察関係員、陸海軍省官吏。時期を問はず次の職に就いた総ての者。

一、元帥府、軍事参議院大本営参謀本部、軍令部最高戦争指導会議の一員。

二、正規の陸海軍将校、特別志願豫備役将校。

三、憲兵隊、海軍保安隊、特務機関、海軍特務部又はその他特別若は秘密諜報機関、陸海軍警察機関に属してゐた将校、下士官、兵又は軍属。

四、陸軍省(一九四五年九月二日以後任命された者を除く)。
大臣、次官、政務次官、参與官、高級副官、勅任官又は勅任官以上の文官と、通常勅任官以上の者が占める地位にある総ての文官。

五、海軍省(一九四五年九月二日以後任命された者を除く)。
大臣、次官、政務次官、参与官、高級副官、勅任官又は勅任官以上の文官と、通常勅任官以上の者が占める地位にある総ての文官。

 ちなみに、憲兵が該当するB項-三の原文はこんな感じ。

Commissioned or non-commissioned officer, enlisted man or civilian employee who served in or with the Military Police (Kempei-Tai) or Naval Police, the TOKOMU [sic] KIKAN, KAIGUN TOKUMU BU, or other special or secret intelligence or military or naval police organizations.

「Kempei-Tai」とそのものズバリが記載されてますね。

ここで余計な余談。
ちまたには、公職追放GHQの陰謀で、このため日本では左翼があちこちの要職に就くようになり左翼思想が蔓延して云々、なんて妄想を奏でているバカ方もおられるようです。まあ、今のところ日本は(一応)立憲民主主義の国ですのでそのような夢を見るのは自由なんですが、少し事実関係について補足など。
公職追放の対象となった者約20万名のうち約18万名は1951年11月までに追放解除が行なわれており、また1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効に伴う公職追放令廃止により全員が解除となりました。
反面、1949年7月からはレッド・パージなんてものが行なわれています。レッド・パージは、占領軍の示唆・指示に基づき、日本政府と企業とが共産主義者とその同調者・支持者とみなしたものを企業・官公庁・学校等から強行的に追放・排除したものです。パージ対象者は、一方的に解雇されただけでなく再就職も困難となる場合がありました。
(なお、「占領軍の示唆・指示に基づき」と言いつつ、日本側も便乗して積極的にパージを行ったようです。)
レッド・パージでは、数万人が不法・不当に追放されましたが、なんら救済措置は取られていません。

憲兵公職追放

さて、本題。
以下の書籍より、終戦間際に憲兵となったばかりに公職追放の対象とされてしまった方の事例です。

戦後の苦難 刻む 佐賀・戦時下の記憶

終戦から3年後の1948年6月。
運輸省の職員に復帰し、長崎道路運送管理事務所でタイヤや重油の配給、車検証発効事務などの業務に従事していた山口さんは、長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)長与村にあった長崎管理部に呼び出されます。
戦時中、憲兵隊に所属していたことから、公職追放の対象となったのです。

「お前、憲兵だったな」と確認されて、「追放令に引っかかっているぞ」と……。将校や憲兵も引っかかるとうわさは聞いていたから、いつかこの時が来ると思ってはいたけど、実際に言い渡されると悔しかった。

山口さんは9月で辞職するよう言い渡されます。
山口さんが憲兵隊に所属したのは終戦間際のわずか1ヶ月半でした。それまでは、久留米で編成された陸軍歩兵第四十八連隊に所属しています。
九州を含む西部軍管区は、米軍が南九州から進行してくることを想定し、有明湾を重点とした沿岸各地に陣地を構築していました。

米軍は軍艦が連ねた「軍艦列車で来る」と言われていて、南九州に侵攻されたら日本は負けだと確信していた。
だから、憲兵学校の合格通知が届いた時は「これで最前線から離れられる」と正直、安心した。当時、西日本で憲兵上等兵候補生の教育は福岡の西部憲兵隊司令部の教育隊がやっていたから、「福岡まで逃げれば大丈夫。これで助かった」と。憲兵学校を受験したのは上官の命令だったけど。
でも、福岡にいて6月19日夜の福岡大空襲に遭い、火の海になった街の中を必死に逃げまわった。あの時はもう死んだと思った。候補生のほとんどが死傷したのに、無傷だったのは運だったと今でも思う。

翌月から、山口さんは鹿児島地区憲兵隊出水憲兵分遣隊に配属されます。
本題の公職追放の話ではありませんが、終戦間際における国内の憲兵(勅令憲兵)の具体的な活動内容がわかるので続けて引用します。

憲兵は軍人も民間人も関係なく、自分よりも上の立場の人でも取り締まれるから、ものすごい権力があった。憲兵が来たと分かると町の雰囲気がピリッとするし、どんな相手でも憲兵手帳を見せればひるむ。
普段は町を巡察して、泥棒や詐欺などの犯罪も取り締まるし、出水の航空基地周辺にいた不審者も捕まえる。駅の担当だったので、週に1回は出水駅でスパイなどの不審者がいないか警戒したりもした。
戦争への批判も取り締まらなければならない。私を見かけた途端、それまでしていた話をやめるなど、特に軍人たちが不審な動きを見せたら、何を話していたのか問い詰めた。制服を着ていれば当然、警戒されるから、時には私服や農家の作業着で変装して見回ったりもした。他人を被疑者扱いするわけだから、嫌な気持ちだったよ。

脱走兵の捜索なんかもあったそうです。

7月末ごろ、夜中に基地から「脱走兵が出た」と連絡があり、駅や山などを数人で探したこともあった。自分は線路伝いに駅へ向かったところ、線路の途中に横たわる人影があった。側に置いてあった飯ごうのふたには、チョークで「いじめ、暴力に耐えられない」と遺書が書いてあった。「鉄道自殺です」と駅から電話で報告した。

日本軍におけるイジメというか私的制裁については、記事をいくつか書いてますので、よろしければどうぞ。

【戦争を知ろう】新兵訓練と私的制裁【日本軍】 - Man On a Mission

【日本陸軍】私的制裁の種類【新兵イビリは蜜の味?】 - Man On a Mission

【鉄拳制裁】海軍の私的制裁【海軍精神注入棒】 - Man On a Mission

【日本軍】私的制裁あれこれ【陰湿と不条理の大和魂】 - Man On a Mission

さておき、山口さんは出水で終戦を迎えます。

その航空基地からは、練習機「赤トンボ」がよく飛び立ち、1機も戻ってこなかった。知覧まで行き、爆弾を積んで再び戦地に飛ぶ、特攻に使う練習機だった。見上げながら「どうせ勝ち目はないんだ。早く戦争が終われば、彼らも死なずに済んだのに」と無念に思っていた。
終戦を迎えた時、自殺した航空兵のことを思った。あと1カ月も我慢すれば、戦争も終わり帰れたのに、と。でも本来、そういうことを言う人を取り締まるのが憲兵。「日本は負ける」なんて自分の前で言う人は最後まで一人もいなかったけど、心の中で矛盾を抱えながらの仕事だった。同僚とも、とてもそんな話はできなかった。

本題からずれますが、特攻について少し。
近年、特攻作戦の犠牲となった人々について「家族や大切な人を守るために死地に赴いて云々」などと美談化する人が増えているようです。
ところが、一ノ瀬俊也氏は、特攻で死んだ多くの人は、残りの国民も死ぬ気で戦争を最後まで戦ってくれると思ったからこそ覚悟を決めて死んでいったのに、戦後生き残った人々は、彼らは残りの人々を生き残らせるために犠牲となるつもりで死んでいったと改ざんして、生き残ってしまった良心の呵責を埋め合わせたということを明らかにしています。

つい脱線してしまいましたが、最後に、公職追放の対象となった山口さんのその後を。

辞職を言い渡された時に初めて、憲兵となったことを心底後悔した。インフレで再就職も難しく、GHQに抗議の手紙も送った。
炭鉱にでも働きに出るしかないと思案に暮れていた時、勤務先の事務所に燃料などの配給を受けに来ていた島原鉄道常務の宮崎康平さん(故人)から「うちに来ないか」と誘ってもらった。捨てる神あれば拾う神ありで、本当にありがたかった。
自分が憲兵だったことは70年間、ほとんど誰にも話していない。憲兵だったころの写真も全部焼いた。持っていたら、また何かの罪にでも問われやしないかと思ってね。

 

 

*1:「ある種類の政党、協会、結社その他の団体の廃止」(SCAPIN-548)および「好ましくない人物の公職よりの除去」(SCAPIN-550)