Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】チェコ リディツェ村の「報復」破壊【ナチスドイツ】

本日記事は「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズ14回目、ナチスドイツの戦争犯罪について取り上げます。

「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画です。

今回は、第二次大戦時、ドイツ統治下のチェコで起こったナチス高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件と、それに対する「報復」として行なわれたリディツェ村での虐殺・破壊について。
なお、ラインハルト・ハイドリヒについては、最近「ナチス第三の男(原作小説「HHhH プラハ、1942年」)」として映画化されました。ハイドリヒ暗殺事件は、1976年にも「暁の7人」という映画になっています。
そういう背景もあって、リディツェ村での虐殺・破壊を「マイナー」として取り扱うか一瞬迷ったのですが、気にしないことにしました。まあ、割とマイナーなんじゃないかということでなんとかご了承下さい。

第二次大戦時のチェコの状況

まずは、背景となる第二次大戦時のチェコの状況について。

第一次大戦まで、チェコオーストリア=ハンガリー帝国の一部だったのですが、当該大戦でオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊、チェコは独立への道を歩み出すこととなりました。
独立を維持するにはチェコ単独ではなく、スロヴァキアと連立して国力を強化する必要があるとして、1918年10月18日、スロヴァキアとの連立国家であるチェコスロヴァキアが誕生します。
なお、スロヴァキア人には将来的には自治を与える、という条件で連立したのですが、チェコスロヴァキア崩壊まで、その自治権は限定的なものでした。そのため、スロヴァキアでは自治拡大を目指すスロヴァキア人民党が多くの支持を得ることとなります。

さて、チェコスロヴァキアは、上記のスロヴァキア自治権や、ズデーテン地方をめぐるドイツからの圧力、ハンガリーとのいざこざといった問題を抱えつつも、安定した政局のもとで発展を遂げました。
しかし、1930年代後半に入るとこれらの問題が噴出します。1938年には、オーストリアを併合したヒトラー率いるドイツが、軍事的圧力によりズデーテン地方の割譲迫りました。同年9月、ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方をドイツに割譲することとなり、これにより大統領エドヴァルド・ベネシュは辞任してイギリスに亡命しています。
この後、ハンガリーポーランドもドイツを後ろ盾に領土割譲を要求、チェコスロヴァキアは事実上崩壊することとなりました。
1939年3月にはスロヴァキアが独立、さらにマジャール人が多く住むスロヴァキアのルテニア地方がカルパト・ウクライナ共和国として独立します。
スロヴァキアはスロヴァキア共和国の名で独立したわけですが、これは、実質上ドイツの傀儡政権でした。また、カルパト・ウクライナ共和国ハンガリーに併合されます。
実に惨憺たる有様ですが、さらにもうひと押し。残るチェコベーメン・メーレン保護領としてドイツの支配下に入りました。

ハイドリヒ暗殺事件

チェコベーメン・メーレン保護領として事実上ドイツに併合されたわけですが、1941年9月、同保護領の副総督にラインハルト・ハイドリヒSS大将が任命されました。
ハイドリヒは、チェコ軍需産業を有効活用するべく「飴と鞭」政策を駆使します。チェコは小国ながら工業が盛んで、兵器開発も高いレベルにありました。例えば、ZB26軽機関銃は故障の少なさが評価され各国で採用しています。日中戦争では国民政府も輸入・使用しており、これを鹵獲した日本軍も「チェコ機銃」なんて呼んで使用しました。
戦後だとVz61サブマシンガンスコーピオン)やCz75自動拳銃なんかが有名ですね。

少し話がそれましたが、ともあれ、ハイドリヒは総督府の方針に批判的な人間を弾圧する一方、チェコ人労働者を懐柔してドイツ軍への協力者を増やすことに成功しました。
ロンドンに樹立されたチェコスロヴァキア亡命政府は、こうした状況を危惧して、ハイドリヒ暗殺を計画します。

1941年12月28日、「エンスラポイド(類人猿)」という秘匿名を付与されたハイドリヒ暗殺計画のため、少数の戦闘員が密かにチェコ領内へ入りました。
ちなみに、侵入はイギリス空軍の航空機ハリファックスMk.IIからのパラシュート効果により行なわれています。当初、プルゼニを目指していましたが、航法上のミスでプラハに向かうこととなり、プラハ東方のネフヴィズディ村に降下しました。
(イギリス政府はロンドンの亡命チェコスロヴァキア政府を支援しており、ハイドリヒ暗殺では実行犯の訓練や装備提供などを行っています)

現場のレジスタンス組織に匿われた実行犯らはハイドリヒ暗殺の機会を窺うものの、情報や準備の不足などでなかなか決行できず、1942年5月27日に至ってハイドリヒ襲撃となります。

ハイドリヒ襲撃の実行現場は、プラハ路面電車の線路にそった広い道路が交差する場所でした。ハイドリヒは、プラハの北約14キロに位置するパネンスケー・ブジェジャニにある邸宅から、執務場所のプラハ城へ専用車のメルセデスで通勤していましたが、襲撃現場に選ばれた箇所は、鋭角のカーブとなっており曲がる際にスピードが低下することから襲撃に最適と考えられたようです。

5月27日、ハイドリヒを乗せた黒塗りのメルセデスがカーブを曲がった直後、暗殺実行犯のヨゼフ・ガプチイク、ヤン・クビシュが襲撃を開始しました。
ガプチイクのステン短機関銃はジャミングを起こして射殺に失敗するものの、クビシュが投げた手榴弾メルセデス近くで炸裂します。
実は、手榴弾によるハイドリヒの負傷はそれほど深刻なものではなかったのですが、傷口から混入した異物が原因で感染症を起こし、6月4日に死亡しました。

暗殺実行犯のガプチイクとクビシュ、そして彼らを支援したチェコの抵抗組織5名の計7名は、プラハ市内の聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂の地下礼拝堂に潜伏していたところ、6月18日、ゲシュタポおよびSS部隊に襲撃されます。
7名は、激しい戦闘の末に死亡または自殺しました。

リディツェ村への「報復」

一応、ここからが本題となります。

ドイツは、このハイドリヒ暗殺に対し、過剰な報復を行いました。
6月10日に「暗殺犯を隠匿した」という不確かな情報をもとに、プラハ近郊のリディツェ村の15歳以上の男性全員(200名近く)を殺害します。
マットレスを立てかけた石造りの納屋の前に、リディツェ村男性を10人ひと組で引き出し、次々と射殺していったそうです。
さらには、女性と子どもたちを強制収容所に送り、村の建物すべてを破壊しつくし更地へと変えました。
収容所へ送られたもののうち、戦後に帰郷できたのは女性が191名中の53名、子どもが98名中の16名だったそうです(諸説あり)。

なお、ドイツはリディツェ村以外の村民に対しても容疑をかけており、約1300名が処刑されています。

最後に

なんと、ナチスはハイドリヒ暗殺とリディツェ村に対する報復措置を、ドイツ民族の鉄の意志として自ら宣伝しました。
このプロパガンダにより、リディツェ村への「報復」は世界的に知られるようになったわけですが、当然ながら世界が「鉄の意志」とやらに恐れ入ったりすることもなく、順当にというべきか、反独感情を高めることに一役買いました。
ちなみに、この事件は翌1943年、ハリウッドにより「ヒトラーの狂人」というタイトルで映画化されたそうです。

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。