Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】沖縄戦の負傷者と女子学徒隊【慰霊の日】

本日6月23日は、「慰霊の日」です。
「慰霊の日」は、沖縄県が記念日として定めているもので、1945年6月23日に、太平洋戦争における沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんでいます。
沖縄戦の犠牲者の追悼・慰霊および平和の希求を目的として1974年に県令として施行されました。

そんなわけで、本日は沖縄慰霊の日にちなんだ話を。
前回、日本陸軍の衛生部・衛生システムについて取り上げたので、その流れに絡んで、沖縄戦で負傷兵や衛生関係者らに何が起こっていたのか、女子学徒隊の経験を中心にいくつか取り上げてみます。

なお去年の慰霊の日は、沖縄戦での、組織的戦闘が終わるまでの最後の数日間の経緯と、いくつかの村の犠牲者数について書きました。

oplern.hatenablog.com

また、沖縄戦については以下のような記事も書いてます。

oplern.hatenablog.com

併せてお読みいただけると幸いです。

女子学徒隊

まずは、簡単ながら女子学徒隊についての説明を。

沖縄戦では、師範学校や中学校の学生たちが、「学徒隊」としてほとんど強制的に動員されました。
男子学生たちは、18歳以上は徴兵で現地入隊させ、17歳は防衛隊員、14〜16歳は「志願」の形をとって動員しています。

女子学徒は、看護要員として動員されました。
沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校、県立第ニ高等女学校、県立第三高等女学校、県立首里高等女学校、私立昭和高等女学校、私立積徳高等女学校、県立宮古高等女学校、県立八重山高等女学校、県立八重山農学校(女子)の全9校の生徒らが、「志願」という形で徴集されています。

皇民化教育」の賜物か、当初は「お国のため」と意気揚々だったようです。若い人ですしね。ところがというか、やっぱりというか大人である親は反対することが多かったようです。
元女子学徒隊の方の証言には、親の反対を押し切ったとか、徴集に応じないよう説得を受けたという話があります。「戦争で死なせるために育ててきたわけじゃない」と親が泣いたという方も。
また、当時の「空気」を感じるものも見受けられます。反対する親に「徴集に応じなければ非国民といわれる」と言ったとか、父親が兵隊に行ってないのが悔しかったから喜んで行った、とか。

さておき、動員された女子学徒に対しては看護教育が施されました。1944年から一応の教育・訓練が行なわれていたものの、本格的な教育は1945年初めからで、3月下旬くらいに各病院へ配置するまでの間に行なわれたようです。3ヶ月足らずの教育しか実施できなかったわけですね。
実は、人によっては3ヶ月足らずどころか20日足らずの教育で配置された、なんて証言もあります。証言では、艦砲や空爆が激しくなったという理由が挙げられてますが、これらの方は教育開始も少し遅かったようです。

教育内容としては、人体知識や創傷の経過と処置、注射器や担架の使い方、伝染性疾患などで、講義終了後に試験を実施し、病院で演習・実地が行なわれました。

傷病兵の看護

短期間ながら教育を受けた女子学徒らは、陸軍病院海軍病院野戦病院に配属されます。
そこでの主な仕事は、負傷兵の食事の世話や排泄物・汚物の処理、包帯交換などでした。

具体的にどんな様子だったのか、証言をもとにいくつか事例を。

県立第二高等女学校の学徒隊、通称「白梅学徒隊」の方は、八重瀬岳(現八重瀬町)の第二十四師団第一野戦病院に配属されました。
野戦病院壕では、軍医一人に衛生兵、看護婦が傷の手当をし、学徒隊は負傷兵の食事の世話や排泄物の世話をしていたとのことです。しかし、手が回らずに排泄物は垂れ流しとなり、衣服も着たきりでシラミが大量に発生したとか。

戦時中の話ではそこそこ登場頻度が高いシラミですが、同じようにウジ虫も常連です。太平洋戦争中の負傷の話では、かなりの確率でウジ虫が登場します。
私立昭和高等女学校の学徒隊、通称「梯梧学徒隊」の方は、手を切断した負傷兵の包帯を解いた際に何かの塊が落ち、何かと思って見るとウジ虫だった、という話をされています。
沖縄戦では、自然の洞窟や壕を病院として使用することが多かったのですが、その衛生環境は劣悪なものとなっていました。
他の方の証言によると、艦砲弾の落ちた穴に水が溜まっており、その水を飲み水にも使えば洗濯もする、シラミの湧いた髪も洗っていたそうです。環境は甚だしく不衛生で、傷口には必ずウジ虫が湧き、包帯の下で蠢き、「ギシギシ」と肉を食べる音まで聞こえたとのこと。
衛生環境については、ウジ虫が湧いて汚れた負傷兵の包帯を替えたり、排泄物の処理をしても、めったに手を洗うことすらできない、という証言も。

さらに時間の経過に伴い、負傷者は増え、物資は不足していきます。

県立首里高等女学校の学徒隊、通称「瑞泉学徒隊」の方の経験。
南風原はえばる)町のナゲーラ壕の第62師団野戦病院では、足の踏み場もないほど負傷者であふれていたそうですが、その状況でも新たに負傷者はやってきます。すでに負傷者で溢れているナゲーラ壕ですが、それでもそこに押しこむしかありませんでした。しかし、物資も不足しており、負傷兵はただ座らせておくしかなかったそうです。
日にちが経つと、傷口にウジ虫が発生します。負傷者がウジ虫を取ってくれと懇願するものの、傷口全体に溢れている上、薬もなくどうしようもない状況でした。さらに食糧もなく、水源地も遠いことから、負傷者から食べ物や水を求められてもどうすることもできなかったとか。しまいには、しずくが落ちてくるのを飯ごうのふたで溜めて、わずかばかりの水を負傷兵に与えていたそうです。
物資の不足については、他の方も、新しい包帯がないから、亡くなった負傷兵から包帯を取り使いまわした、という話をされています。
食糧や水の不足についても同様に言及されていますが、これは当然ながら負傷兵だけでなく、看護する女子学徒も食べられない、水が飲めない、ということを意味しています。1日1回、小さな握り飯があるときはいい方で、何も食べられない日も。水もなく、のどが渇いてたまらなかったそうです。

手術の介助

女子学徒隊は手術の介助も行っていました。

「白梅学徒隊」の方の経験。
手術場には寝台が1つだけあり、照明は空きビンに灯油を入れて火をともしていたそうです。手術では、女子学徒2名がろうそくを2本ずつ持って立ったそうです。
当時、女子学徒は満足に休養を採ることは難しく、ほとんど不眠不休で仕事していることも少なくありませんでした。ろくに睡眠も取れず、壁に持たれて少し眠る程度ということもあったようです。疲労困憊のため手術中にウトウトすると、軍医から固い革靴で脛を蹴飛ばされたとか。
前回記事で書いた通り、第二次大戦ころまでは感染症による死亡を避けるため、手足を負傷すると切断することがよくありました。沖縄戦の証言でも、負傷により手足を切断する話が多く見られます。
足の切断をするときは、初めのころは一応麻酔をしていたということですが、大抵の兵が悲鳴をあげたそうです。「初めのころは」という非常に気になるワードが出てきましたがこの点は後述するとして、麻酔をしても悲鳴をあげたことについて、この証言をした女子学徒の方は、麻酔量も時間も足りなかったんじゃないか、と話しています。時間というのは、麻酔が効くまでのの時間ということでしょうかね。ちなみに、中国戦線における衛生兵の証言でも、大腿部を切断するのに麻酔が効かず、痛い痛いと泣くのをノコギリで骨を切ったなんて話が出てきます。

さて、気になるワード「初めのころ」についてですが、実は、麻酔がなくなったので麻酔なしで腕や足を切断手術したという証言が散見されます。
女子学徒ではなく日赤看護婦の方ですが、やはり麻酔なしで手足の切断手術を行ったとの証言があり、その際は、皆で負傷兵を押さえ込み、負傷兵は断末魔のような悲鳴をあげたということです。

切断された手足の処理・死体の片付け

なお、切断された手足の処理も女子学徒らの役目でした。処理というときちんとしたイメージを持たれるかもしれませんが、この場合の「処理」は切断された手足を土中に埋めるだけです。
さらには、死体の片付けと埋葬も女子学徒らの役目でした。女子学徒以外にも篤志看護婦として配属された方がおり、この方々も死体の片付けをされています。
元県警察部職員で、篤志看護婦として海軍沖縄方面根拠地隊、海軍第一外科壕に配属となった方の証言では、壕内の横穴に死体置き場が作ってあり、鍵付きの鉄格子の戸が閉まるようになっていたとのことです。
何十人分も収容できる広さだったそうですが、そこへ衛生兵2人と、外科用の車輪の付いた寝台で死体を運んで、衛生兵が投げ込むというやり方でした。
この証言をされた方は、「死体の片付け」について、助かる見込みのない重傷者を、何の説明もなく寝台に乗せ死体置き場に運んでいたというさらに深刻な話もしています。治療室に運ばれるものと思っていた重傷者は、死体置き場の近くに来てそうでないことに気づき、泣き叫んで助けを求めたそうですが、衛生兵はこれに返事をすることなくヨイショといって投げ入れ、鍵をかけて引き返したそうです。

看護内容のまとめ

さて、この辺で、女子学徒たちの看護内容について少しまとめておきましょう。
まず、今までに挙げてきたのは負傷兵の食事の世話や排泄物・汚物の処理、包帯交換、それに手術の介助に、切断した手足や死体の片付けでした。
負傷ばかり挙げてきましたが、病気、特に赤痢マラリアが多発していましたので、これらの看護にもあたっています。
痛み止めのモルヒネ注射や、破傷風予防の皮下注射も行っていました。
変わったところで、宮古島宮古高女学徒隊はバッタやカエルを取って栄養剤を作ったり、薬草採りを行っていたとか。

ちなみに、兵士同様に、女子学徒隊も多くが犠牲となっています。
沖縄本島で動員された女子学徒は381名ですが、そのうち187名が死亡しており、これは死亡率49%に達します。2人に1人は死亡したわけです。
また、極度の疲労や栄養状態の悪さなどから、生理が止まったり、原因不明の高熱(壕熱)を出して衰弱する方も多かったそうです。

首里撤退と重傷者の「処理」

去年の記事でも書いたのですが、沖縄戦で防衛の中心となった日本陸軍第三十二軍司令官の牛島満(うしじま みつる)中将(後に大将)は、5月22日に首里(現那覇市)から沖縄本島南部への後退を決定、5月29日に首里からの撤退を開始します。

第三十二軍司令部は、首里退却時の兵員を5万人、退却中の損耗2万人、新布陣3万人と判定していますが、この「2万人の損耗」の中には、「処理」された重傷患者が含まれていました。

以下、公刊戦史の戦史叢書*1「沖縄方面陸軍作戦」の記述から、「処理」の内容を引用します。

軍としてもっとも苦慮したのは重傷患者の処理であった。五月下旬首里、津嘉山付近の病院はもちろん、各隊も多くの傷者をかかえており、その数約一万と見込まれた。
軍は傷ついた戦友を一名でも米軍の手に渡してはならぬと焦慮したが、輸送力がきわめて貧弱なため、実情は遺憾ながら相当数の重傷者が収容不能の状態である。
この処理に関して軍参謀長は「各々日本軍人として辱しくないように善処せよ」と指示したようである。
多くの重傷患者は軍参謀長の指示を待つまでもなく、平素教育されたように陛下の万才を三唱し、手榴弾、爆薬、あるいは薬品で自決した。

さて、人の生き死にについて、ずいぶんスッパリさっぱり記述してやがりますが、本当にこの記述通り、死の間際に天皇陛下万歳などと言いつつあっさり「自決」したのでしょうか?

軍参謀長の指示、端的に要約すると「死ね/殺せ」という指示ですが、これを受けて重傷者には手榴弾や青酸カリが配られました。しかし、多くの重傷者はこの青酸カリを密かに処分しています。
重傷の身でありながらも、自力で後退しようとする姿が随所にみられ、中には、両足に重傷を追いながらも這って壕を抜け出したものもいました。

重傷者への死の強要については、各地、各人で様相が異なります。証言を元に、いくつかの事例を挙げてみましょう。

まず、白梅学徒隊の方の証言。
この方は6月1日に、軍医から「青酸カリをバケツに溶かしてあるから、(重傷兵に)順番よく注射していけ」と命じられました。
「軍医殿、みんな殺すんですか!?」と驚き尋ねると、「最後にお前、そして軍曹、伍長、(青酸カリが)残ったら(注射を)やる、残らなかったらやらない」と言われたそうです。これは、青酸カリを使い切るくらい、手心を加えることなく全員殺さなければお前らも殺すぞ、という脅しでしょうかね?
それでも、あまりの命令に意を決して断ると、軍医は、衛生兵に「じゃあ、(衛生兵が)飲ませろ」と命じました。結局、6月1日から2日の朝まで、重傷兵を青酸カリで殺害し、軍医は夕方に本部に帰ったそうです。

次にひめゆり学徒隊の方の証言。
5月25日に、南風原第三外科壕から南部へ撤退することとなりますが、重傷患者は壕に残しておけ、衛生兵が運ぶから、君たちは独歩患者だけを連れて撤退しろ、と言われています。
撤退しようとしたところ、重傷兵らが這いずって壕の入口に来て、「どこに行くんですか」とか「連れて行ってくれ」とすがりついてきたそうです。
これに対し、将校が日本刀を抜いて「重傷患者を連れて行くと叩き切る」と脅しています。

沖縄水産学校鉄血勤皇通信隊の方は、南風原陸軍病院壕を5月28日早朝に出発しますが、その際、女子学徒が残った重傷兵に白い小さな袋を配っているところを目撃しました。
重傷兵らは、それが毒だと知っていたんじゃないかということですが、みな「ありがとうございます」と言って受け取っていたそうです。

同じ南風原陸軍病院壕に収容されていた重傷兵は、上記と異なる証言を残しています。大要、以下のような証言です。

5月28日、衛生兵がミルクの配給を行ない、自分にも配られた。非常に苦かったので、黒砂糖を混ぜて一気に飲み干したところ、目がぐらついて息が苦しくなり、胃が煮えくり返った。
毒だと気づき、水を飲み何度も吐いた。周りの者は、初めは苦しんでいたが次第に静かになった。「殺される」と思った瞬間、それまで動けなかった体が動くようになり、仲間と2人壕を抜けた。

この方は、摩文仁(まぶに)で原隊に復帰、その後投降しています。捕虜収容所では、陸軍病院にいた衛生兵を許せないと思って探しまわったそうです。

他にも、真壁村では衛生兵が500人の重傷患者を一人ひとりすべて刺殺・銃殺して最後に自決したとかいう話が残っています。
戦史叢書の記述は第三十二軍高級参謀の八原博通大佐の終戦後の回想を元にしているようですが、都合の良いように言及してる感が拭えませんね。

ちなみに、天皇陛下万歳三唱なんて話も、証言にはほとんど見られません。今際の際にはほとんどの兵士が母あるいは妻の名を呼びながら死んでいきました。中には、所属部隊の将校や、東條英機天皇への恨みを訴えた兵士もいますが、これも最期には母や妻の名を呼びながら死んでいます。

最後に

さて、慰霊の日ということで、沖縄戦における負傷兵や衛生関係者らの話を書いてみました。
以上の通り、非常に苛酷な体験をされていますね。

負傷兵や衛生関係者らに限ったものではないのですが、2013年の沖縄県立看護大学による沖縄戦を体験した6町村在住者(沖縄本島4町村、沖縄本島周辺離島2村)を対象とした調査では、戦後67年が経過しながらも、PTSDが疑われる者が、少なく見積もっても2〜3割いると推測されたそうです。
戦争ってイヤですね。

最近の日本では、やれ国防だ安全保障だと軍事について語る人が増えましたが*2私見ながら、これらの方々の多くは、兵器とか軍隊の話に終始することが多く、戦争被害について言及することはめったにないようです。
たまに戦争被害の話に及んでも、「日本がそうならないように軍備増強」などと、まるで統一された想定問答集があるかのごとく同じ返答が返ってきたり。抑止力ファンタジーですね。
まあ、これは軍事に限った話でもなくて、この手の方々と話すと、いろんな事象で同じ答えが返ってきます。誰かが描いた絵図に知らない内に乗せられているように見えるのですが、自覚の有無はともかくとして世間ではこれを受け売りというんでしたっけ。「絵図」の妥当性も検証せずに、知ってる風を装えて気持ちいいからつい乗っちゃったんでしょうね。

日中戦争・太平洋戦争であれだけの犠牲を出したのに、すでに戦争が「ファンタジー」化して何も感じなくなってるんだなあ、と、もはや感心の域に達してるのですが、ともあれ、これら一部の方々が流す意見が、一般の方々に浸透してやんわり「一般的見解」になっていく様を見ていると、なんとも心寒いです。

 

 

*1:防衛研修所戦史室により編纂され、朝雲新聞社より刊行された公刊戦史。

*2:なお、トータルで捉えるべき安全保障を、軍事力だけの問題として単純に捉えてる人が多いように思います。ついでに言うと、強硬路線一辺倒なことが多いです。