Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日中戦争・太平洋戦争】日本軍の従軍看護婦【陸軍看護婦・日赤看護婦】

最近、医療関係の記事が続いています。とはいえ、別段、私は医療の専門家というわけではありませんし、当ブログも昭和初期から太平洋戦争あたりをメインに取り扱ってます*1ので、医療関係とかいっても以下の通り、真正面から医療について取り上げたものではありません。

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上記には、日本陸軍野戦病院やら陸軍病院やらといった衛生システムについて取り上げた記事がありますが、今回はその関連で、陸軍看護婦や日本赤十字社の看護婦について。

日本陸軍と陸軍看護婦

日本陸軍では、兵科以外の職種(各部)として、経理部・衛生部・獣医部・軍楽部・技術部・法務部があり、そのうちの衛生部が人間の医療に当たります。

師団司令部には軍医部があり、また各地(主に連隊所在地)に衛戍(えいじゅ)病院(後に陸軍病院)が置かれました。
平時の衛戍病院(後に陸軍病院)には、陸軍の採用する「陸軍看護婦」が勤めます。

この陸軍看護婦は「軍属」であり「軍人」ではありません。軍属は、文官・雇員(こいん)・傭人(ようにん)に分けられますが、看護婦は「雇員」にあたります。
(「軍属」についての詳細はこちらを参照ください。)

なお、日本における全国統一の助産婦、看護婦、保健婦の資格制度は、1899年(明治32年)産婆規則(後に助産婦規則)、1915年(大正4年)看護婦規則、1941年(昭和16年保健婦規則によって成立しています。18歳(助産婦は20歳)以上の女子で、一定期間の修業を経て地方長官の試験を受けるか、または、指定された学校講習所を卒業することが地方長官の免許を受ける要件となっていました。
ちなみに、太平洋戦争の戦局激化に伴い、年齢は16歳まで順次引き下げられ、さらに学校講習所の修業期間も2年から6ヶ月に短縮されたりしています。

戦時になると、当然ながら平時の看護婦だけでは不足しますので、将兵らと同じように看護婦も動員されました。いわゆる「従軍看護婦」ですね。
従軍看護婦という呼称は戦後になって用いられるようになったものです。)
この従軍看護婦については、その多くが日本赤十字社より動員されています。

日本赤十字社と日赤看護婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本赤十字社の看護婦は救護看護婦という名称で国内/海外各地へ派遣されました。
1910年(明治43年)の「日本赤十字社条例」改正(勅令第二百二十八号)では、「日本赤十字社は救護員を養成し救護材料を準備し陸海軍大臣の定むる所に依り陸海軍の戦時衛生勤務を幇助す」とされており、また、日本赤十字社も戦争における救護を主目的に発足したものです。

日本赤十字社

日本赤十字社の成り立ちについて少し触れておきます。

赤十字は、ヨーロッパ各国で設立された民間団体であり、戦場において傷ついた兵士はもはや兵士ではなく、敵味方関係なく救わなければならない、という考えに基づいて発足しました。
1863年に採択された赤十字規約では、各国赤十字社は民間の救護組織として軍の衛生活動の援助を行なうとされています。
各社はあらかじめ各国政府と取引を交わし、実際の活動に際しては、政府の容認を受け、軍の要請または許可に基づいて救護員を派遣します。なお、戦地においては、軍の指揮下に入って活動します。
1864年には国際条約(ジュネーブ条約)により、病院や衛生施設、衛生要員、傷病者、救護活動を行なう住民を攻撃してはならないと定められましたが*2赤十字社は、「救護活動を行なう住民」に該当するものとされました。1929年の改正では、赤十字社と明記されるようになっています。

日本における赤十字社も、戦争における救護を目的として発足しました。
1877年(明治10年)、佐野常民が各国赤十字社のような組織の必要性を訴え、博愛社を設立します。赤十字社同様、敵味方関係なく治療を行なうとされていました。
1886年明治19年)には、日本が赤十字条約に加入し、博愛社日本赤十字社と改称します。
戦時救護だけでなく災害救護、国際救援も行なっており、例えば1891年(明治24年)には濃尾震災の災害救護にあたりました。

戦時救護については、日清戦争日露戦争で国内陸軍病院での救護活動にあたり、また、第一次大戦では、初の国外における救護活動を行なっています。

こうして戦時救護の実績を積み上げた日本赤十字社ですが、この実績は、日本赤十字社に対する陸海軍の権限強化をももたらすこととなります。
先に述べた1910年(明治43年)の「日本赤十字社条例」改正では、陸海軍が日本赤十字社の社長・副社長を奏任(陸海軍大臣が選んだ人を天皇が任命)することとなり、病院の開設・移転・閉鎖について陸海軍大臣の認可が必要となりました。
1938年(昭和13年)には、さらに陸海軍の権限が強化されます。同年勅令六百三十五号により、日本赤十字社条例は日本赤十字社令と改称、陸海軍大臣が戦時・平時の区別なく「日本赤十字社の事業に関し監督上必要なる命令」が出来るとされました。

日赤看護婦

明治から昭和初期にかけての日赤看護婦は、全国各地の赤十字病院内で養成されました。
東京渋谷ノ日本赤十字社病院での看護婦養成を例に取ると、病院内に教室と寄宿舎があり、生徒全員が生活を共にしたということです。
修学年限は3年間で、1934年(昭和9年)以降、高等女学校卒業が入学者の条件となりました。
解剖生理や衛生学、細菌学、消毒法などの基礎科目を第1学年で、第2、第3学年になると病棟での実務学習が中心となったようです。

卒業後、20年〜7年(次第に短縮された)は日本赤十字社の召集に応じる義務があり、日中戦争から太平洋戦争にかけては、延べ3万3156人が動員されました。
(戦地衛生勤務につく日赤救護員は、軍属として陸軍の指揮下に入り、軍律に服する宣誓を行います。)
日赤の救護班には、病院船、病院列車、看護婦組織があり、標準的な人数としては、病院船が67名、病院列車が28名、看護婦組織が22名です。

上記のうち、看護婦組織について標準的編成を挙げると、班長である救護医長1名、班員である救護看護婦長1名、救護看護婦20名からなり、必要に応じて救護調剤員、救護書記、通訳および使丁(用務員)を配置できることとなっていました。救護書記、使丁は男性です。
なお、日中戦争以降は医師不足によりほとんどが看護婦による組織となり、班長は救護書記か看護婦長が務めました。
ちなみに、婦長は下士官待遇、看護婦は兵待遇だったそうです。

日本赤十字社の看護婦は、日中戦争から太平洋戦争にかけて、延べ3万3156人が動員されました。
乳飲み子がいるにも関わらず動員された事例もあれば、結婚が決まったからと辞退が認められた事例もあります。動員の強制性については、各支部で異なったようです。
動員された看護婦は1000人以上が命を落としており、その死因は、結核や急性伝染病が多くを占めていました。しかし、戦傷死も130人を超えています。

救護班の勤務地は危険を伴う前線を避けることとされ、病院船、陸軍病院兵站病院の勤務が主でした。特別な理由がある場合を除き、野戦病院には勤務しないこととされています。
しかし、戦況が悪化するにつれ、兵站病院もたびたび爆撃を受けるようになりました。国内では陸軍病院も空襲被害を受けています。1943年には海上交通の危険性を理由として、病院船での勤務が中止されました。

最後に

さて、概要程度ではありますが、「従軍看護婦」について取り上げました。
実際の救護活動やその他もろもろについても、そのうち取り上げたいと思います。いつか。たぶん。

ところで、近年は男性の看護師も増えていますが、戦前においても全く皆無だったわけではなく、男性看護人が看護婦と協同して医療活動にあたっています。
日赤看護婦と同様、日赤本社病院および支部病院で養成を受け、1890〜1922年で1553名、1923〜1945年では8名でした。看護人は看護卒(後の衛生兵)や兵役経験者であったため、短期養成だったようです。

看護人は、明治・大正期の日赤の救護活動で活躍しており、日清戦争日露戦争などでは看護婦派遣は行なわれず、もっぱら看護人が派遣されています。
看護婦派遣は第一次世界大戦以降に行なわれたわけですが、なぜ、それまで看護婦派遣が行なわれなかったのでしょうか?

その理由は、日赤看護婦の戦地派遣について陸軍からの許可が得られなかったためで、陵辱などの危険や、体格面が危惧されたようです。
なお、将兵との風紀問題も危惧の一つとして上がっており、日清戦争時、陸軍軍医監督で日赤役員だった石黒忠悳は、回顧談で「戦地において立派な戦功を立てた名誉の傷病者が、女の看護を受けるため万一何か風紀上の悪評でも立ったら」などと、差別的というか女性蔑視というか、問題のある発言をしています。

風紀問題はともかくとして、「危険」については、後のソ連軍進攻において現実のものとなりました。ただし、日赤看護婦よりも民間人女性の方が被害が多かったようです。
ちなみに、余談というか「風紀問題」にも絡むのですが、日本将兵からセクシャルハラスメントを受けたという話も残っています。他にも、陸軍病院の軍医から、病院を守るためにソ連兵に何を求められても耐え忍ぶように、と暗に貞操を捨てるように示唆されたという話も。拒絶すると「軍人が軍刀を捨てなければならなかったのに、女は貞操を捨てられないというのか」と逆切れしたとか。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

戦争と看護婦

 

 

*1:最初は、一応IT系ブログのつもりだったんですがね…。

*2:実際には、病院や病院船が攻撃を受けることは少なくありませんでした。
現代に目を移すと、ジュネーブ諸条約において民間人、病院、教育施設への攻撃は禁止されています。しかし、これらの実効性をどう確保するのかという課題は解決されておらず、戦地の報道や体験記、証言などをみると、禁止されているはずの攻撃が盛んに行なわれているのが実情です。「国境なき医師団」が開設した病院が爆撃されたこともありましたね…。
ところで話は変わりますが、最近「こういう決まりがあるからxxということはありえない」とかいうバカ方が増えてませんか?某所で「日本陸軍私的制裁を禁止してたから私的制裁は無かった」とかヌカすヤツを見た時には腰を抜かしそうになりました。決まりを作ったら、みんなその通りに動くとかいう夢をみてれば、なにも問題は無いことになるので楽でよいですねクソが。病院や学校への爆撃はなかった。いいね?
ちなみに、私はこういう現実から乖離している方々のことをファンタジスタと呼んでます。どうでもいいか。