Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【長崎原爆の日】原爆の見せた風景【8月9日】

前回記事は、8月6日の広島の原爆の日に上げました。

oplern.hatenablog.com

原爆開発から投下に至るまでの概要と、それから、戦争犯罪としての原爆、広島原爆の大本営発表について取り上げています。原爆の話となると、その被害の惨状が取り上げられることが多いのですが、上記では、あえて被害実態から離れた視点のものを書きました。いわば原爆投下の「遠景」ですね。

本日は8月9日で長崎の原爆の日ですので、当然ながら、前回に引き続いて原爆の話です。前回の予告通り、今回は「近景」について。長崎原爆による被害について、証言を中心に取り上げます。

核爆発の4つの殺意

以前、広島原爆について取り上げた記事で、原子爆弾の仕組みについて触れました。

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原子爆弾には、ガン・バレル(砲身)型とインプロージョン(爆縮)型の二種がありますが、いずれの方式でも、臨界量の超過により核分裂の連鎖反応が起こし、膨大なエネルギーを放出させるというものです。
今回記事は、このような核爆発のもたらす惨禍について取りあげるものですが、その前に、核爆発の「威力」について少し触れておきます。

核爆発の「威力」は電離放射線、熱線、爆風、放射性降下物の4つに分類することができます。

まず、核爆発直後に電離放射線が発生します。長崎原爆は核出力22キロトンですが、この規模の核爆発では、半径約1.5kmにわたり致死的被曝を起こしうると推定されています。

次いで、熱線です。放出されたガンマ線X線に大気中の原子が激しく反応し、超高温・超高圧の火球を作り出します。その熱は中心部で数百万度、表面で数千度に達し、可視光線と熱線を放出します。爆心地近くでは、石の表面が融けてガラス化するほどの高温となり、被爆者はほぼ蒸発します。また、熱線は各所で火災を引き起こすこととなります。

火球は、周辺大気との間に猛烈な気圧差をもたらし、爆風を生み出します。爆風により建造物も損壊しますが、この際、建造物の破片が高速で飛散しさらに被害を拡大させます。

そして、放射性降下物、いわゆる"死の灰"がもたらされます。放射性降下物の拡散は、気圧差、地形、気温、風向風力の影響を受けますが、広範な地域を汚染します。

核爆発後の風景

核爆発の「威力」は上記の通りですが、これにより、被爆地の人々に何が起きたのでしょうか。
ここからは核爆発の被害事例として、長崎原爆についての証言を書籍等からいくつか引用します。

まずは、以下書籍より。
あの戦争を語る 70年目の証言

当時12歳、中学校に通うため、長崎「軍艦島」の実家を出て、長崎市の大浦に下宿していた加地英夫さんの証言。

8月9日は1学期末試験の最終日だったそうで、早く帰って遊ぼうと浦上駅から大浦に向かうため路面電車に乗っていたそうです。
電車が、爆心地から約2kmの稲佐橋付近で停車し、そこで被爆したとのこと。

「電線の故障のようでした。どれくらい止まっていたでしょうか。かすかに爆音がしました。また空襲が来たのかなと思っていたのですが」
その爆音が次第に強くなって、急降下するように聞こえてきた。
そのとき、ピカーッと前後左右から黄白色の閃光が入り、目がくらんだ。同時に、左ほほに熱線を感じて、
「あっつー」
と手で押さえ、しゃがみこんだ。
「ガスタンクに爆弾が命中して爆発したのかもしれない」
と思っていると、
「ドカーン」
百雷の音が響いた。電車のガラスが割れ、頭の上から破片が降りかかり、強烈な爆風で電車が揺れた。
「どうしよう? 早く逃げよう、山のほうへ」
起き上がり、その光景に驚いた。いつもの長崎ではない。家並みは薄暗く、水墨画で描いたような情景だった。
「キノコ雲が太陽を遮っていたからでしょうね。目の前は暗かったですが、遠く向こうは青い空でした」(加地さん)
電車から降りると家々が東海市、煤やら土埃、瓦が割れた粉じんなどが舞い上がり、視界が悪い。灰色や黒、茶色、暗い色が入り混じった混沌とした景色。
運が良いことに無傷だった加地さん。ようやく見つけた防空壕には、すでに10人ぐらいの人がいた。被害を免れたようで、ひどいけがの人はいなかった。だが、加地さんが壕で休んでいると、次々とけがを負った人たちが入ってきた。
顔中真っ赤で血だらけの人、やけどで腕の皮膚がぶらりと垂れ下がっている人、みるみるうちに総勢30人ほどになった。
「次から次に人が入ってくるので、壕の奥に押し込まれる。焦げたような、息が詰まるにおいがして息苦しくなってきたので、『このままでは死んでしまう』と壕を出て下宿を目指しました」(加地さん)

午後4時頃、大浦の下宿に到着した加地さんは、浦上一帯を見下ろせる山の中腹にある壕に入り、夜を迎えます。ジメジメした壕から、新鮮な空気を吸いに外へ出た加地さんは、浦上一帯を焼き尽くす火災を目の当たりにします。当時、血気盛んな軍国少年であった加地さんは、その光景を見て立ち尽くし「本当に日本は勝てるのだろうか」と感じたそうです。

次は、熊本大学五高記念館叢書より。
当時、熊本の旧制第五高等学校二年生、長崎造船所に学徒動員されていた廣松敏生さんの体験記。

廣松さんは、原爆投下の瞬間、長船立神鉄機場内の、鉄板で囲まれた特別区域にいたそうです。特殊潜航艇(甲標的)丁型「蛟竜」の船体中央部の内側から外板溶接を行なっている最中でした。
11時過ぎ、突然、工場内に衝撃が走ります。恐る恐るハッチから顔を出すと、鉄粉の粉じんが舞う中を顔から血を流した人が走っていました。
廣松さんも、あらかじめ決められていた横穴壕に駆け込みましたが、しばらくして外の様子を見に行ったところ、長崎駅方向に黒煙が上がり、地面に近く赤い炎も少し見えていました。この時、廣松さんは8月6日に広島に落とされた特殊爆弾だと思ったそうです。

我々理科の生徒は物理の授業で原子爆弾の原理も教わり、敵味方開発競争に鎬を削っていることを知っていたのでこれが原子爆弾に違いないと思った。

翌日出勤すると、従業員の大多数は原爆被災しており、小ケ倉寮を宿舎としていた学徒隊だけが健在という状態でした。これにより、造船所の生産機能は停止。五高生は市内の救済活動をすることになったそうです。
廣松さんは、城山にいる叔父が気がかりだったので、少しでも城山に近い方の拠点を希望し、浜口町の長崎医専の正門下にトラックを止めて救援活動に当たることとなりました。
廣松さんは、しばらく様子を見た後、仲間に断り単独で城山の叔父の家に向かいます。

松山町で左に折れ松山橋を渡る頃には目を覆いたくなる様な光景が現れて来た。橋の上にはやけどで膨れあがった死体が転がっている。目を浦上川の中に移すと、一〇体くらいの膨れた遺体が水辺に漂っている。最後に熱さを逃れようとし、水を求めて亡くなった人達であろう。此の様子ではとても見込みは無いなと思いながら六月に一度だけ訪問した記憶を頼りに、死臭の漂う焼け跡を進んだ。確か住宅地の道路から石段を登り二軒目の石垣の上の家だった。石垣の上の並びは焼けていないではないか。家屋は完全に破壊していたが、火は石垣の下で止まっていた。
原爆投下時家に居なかった市内の小学校教頭の叔父、長崎薬専の生徒で戸町の三菱トンネル工場で働いていた長男、そして長崎高女を卒業し道ノ尾の鉄道管理部に勤めていた長女の三名が無事な姿を見せてくれた。
叔母(私の母のすぐ下の妹)、叔父の妹、従妹、従弟の四名は倒壊した家の中から脱出し、物置小屋のトタン屋根を利用した日除けの下で庭に横たわっていた。従弟の一人は倒壊家屋の中で死亡していた。早く遺体を引き出さねばならない。叔母より原爆炸裂時の従弟の推定位置を聞きながら、叔父、長男と私で折れた材木を一本一本抜き出しながら、遺体を引き出し、庭で荼毘に付した。

15日の玉音放送の後、学徒動員されていた五高生は解散、廣松さんは叔父一家と共に祖母の家へ移動します。倒壊した家の中から脱出した四人は、その後一人、二人と亡くなり、数日で全員亡くなられたそうです。

次は、こちらの書籍。
空襲におびえて 刻む 佐賀・戦時下の記憶

長崎では、被爆者の収容が追いつかず、佐賀県内にも多数の負傷者が搬送されました。
8月12日、肥前鹿島駅に約60人が到着、鹿島小学校へ搬送され、地域住民が看護にあたっています。

当時、旧制鹿島中学校の1年だった今村孝治さんは、小学校までの搬送を手伝いました。

駅に着くと、よその班と合流して20人以上になって、リヤカーも10台くらい並んでいた。当時はゴムが貴重品だったのに、どのタイヤにもチューブが付いていた。きっと地域を挙げて集めたんでしょう。
子どもはホームに入れてもらえなかったから、改札口の外から母たちを見守った。後で調べて分かったことだけど、長崎から到着した負傷者は列車の客車じゃなくて貨車に乗せられていた。そこから母たちに担架で担がれたりして、リヤカーの荷台に乗せられた。
けがや容体がどんな状態か見ようとしたけど、白い布で全身が覆われていた。婦人会の人たちがリヤカーを引き、持ち手に結んだロープを子どもが前から引っ張った。
暑さに加えて、小学校まではきつい上りが続く。まだ砂利道だったから、チューブ付きのタイヤでもごとごと揺れる。乗っていた女性が「痛い、痛い」と声を上げるのがかわいそうでね。いったん止まって、スピードを落としてゆっくり行くもんだから、歩くより倍くらいの半時間もかかって汗びっしょりになった。はっきりとは覚えていないけど、そんなふうに何往復かはしたと思うよ。

当時、ほとんどの医師が出征しており、鹿島に残っていたのは高齢の数人だけだったそうです。小学校では医師1人と帰省中の若い医学生が治療に当たり、数人の保健婦と婦人会の女性が手伝い、また、男性陣は遺体処理を行いました。

家の前で遊んでいると、作業を終えた母たちが帰ってきて、負傷者の全身やけどやうじ虫がわいた痛々しい様子とか、「今日も亡くなりんしゃった」とか、立ち話をしていた。中学生だった当時は、大人がどんな苦労をしていたのかほとんど気にも留めていなかったけど、今思えば、住民挙げての看護は相当大変なものだったに違いない。

被爆者の状態や看護については、鹿島市原爆被爆者の会が発行した『平和へのねがい』に、保健婦らの体験がつづられています。そちらから少し。

〈湯を沸かし身体を吹いてあげると、血を噴き上げ、その内に被爆者の髪は抜け、激しい下痢を伴い、原爆の「光」を飲み込んだだけでも脳、胃腸の異常を起こし、発狂して死亡する人が大部分でした。〉
〈耳痛を訴える患者を診ると、耳穴の中までもうじ虫で詰まっているありさま。かんざしでつまみ出してやりながら、私は吐き気をもよおし、我慢するのにひと苦労した。また、全身にガラス破片の食い込んでいる人もいた。その傷口にかんざしを入れると「ガサッ」と当たり、顔と言わず手と言わず、取り出しても尽きなかった。〉

「空襲におびえて」からもうひとつ。
当時、15歳で佐賀県内から学徒動員され、長崎市の三菱兵器大橋工場で働いていた平山末広さんの証言。

そろそろ昼ごはんかなぁと思った頃、工場の中が突然、ピカっと光った。電気のショートかと思った瞬間、猛烈な爆風が来た。その後は気を失っていたようで、周りが熱くて目を覚ますと、がれきの下敷きになっていた。工場の中はめちゃめちゃ。建物は形こそ残っていたが、むき出しになった鉄筋があめのように溶けていた。見回すと火が迫っており、一緒に働いていた人たちがたくさん死んでいた。

平山さんが働いていた工場は爆心地から1kmほどの位置にあり、周囲の木造の建物は爆風で倒壊し燃え上がっていました。

工場から外に出ると焼け野が原。また爆撃があるかもしれないと思い、必死で逃げた。周りの木造の家は爆風で壊れ、ぺしゃんこ。線路の枕木も燃えていた。自分は奇跡的に助かったのだと感じた。壊れた家から「助けてくれ」とうめき声が聞こえたけど、どうすることもできなかった。
逃げる途中、出会った同級生にけがをしていることを教えると「お前もひどいけがだ」と言われた。頭頂部が15センチほど切れており、手足もけがをしていた。必死だったので痛みも感じなかった。
人の波に乗って、防空壕や救護所に行ったけど、どこも重傷者でいっぱい。やけどで皮膚が垂れ下がった人や、死んだ赤ん坊を抱きかかえ、助けてほしいと泣き叫ぶ母親がいた。街全体が焼かれ、薬もなかった。私は頭を消毒だけしてもらった。汽車で諫早まで行ったが、そこもいっぱいで大村の海軍病院までいった。そこで、麻酔なしで頭の傷を縫合してもらい、一夜を過ごした。

8月15日、政府は国民に向けて日本の降伏を告げる「玉音放送」を流します。大村から嬉野の海軍病院に移っていた平山さんは、その日列車を乗り継いで相知の実家を目指していました。

帰りの列車で軍人さんたちがひそひそ話をしていたので何だろうかと思ったが、その時は家に帰りたいという思いでいっぱいだった。家に着いた時はもう暗く、盆ちょうちんがともっていた。頭に包帯を巻き、松葉づえの私を見て、両親は驚き、涙を流していた。
原爆投下後、私が行方不明になっていると学校から連絡があり、父はすぐ長崎まで探しに行ってくれた。長崎市の隣の長与にいて、原爆被害から逃れた兄も探してくれた。私が見つからず、もう死んだと思っていた。盆が終わったら、葬式の準備をしなければと話していたという。
もちろん、父も兄も放射能のことなんか知らず、焼け野が原となった長崎市内をあちこち回った。父は7年後に病死した。今思えば、2次被ばくだったのかもしれない。
学校には治療を続けながら、秋から通いだした。原爆で同級生が13人死んだことを聞いた。慰霊碑を学校敷地に同級生の手で建てている。

原爆炸裂後に入市して間接被爆し亡くなられた方については、爆心地からの距離が近く、また、総移動距離が長い人ほど、悪性新生物が死因となっている場合が多いようです。
なお、爆心地の情報や残留放射線の情報を得ることもできなかったため、残留放射線のリスクが高いと考えられる爆心地から500メートル以内に立ち入っている方も少なくありませんでした。

被爆者手帳の交付を受け、健康診断を率先して受けていたから今まで生きてこられたと思うけど、大腸がんや胃がんで入退院を繰り返してきた。
被爆者は毎年のように亡くなっており、あと5年、10年すれば、語り部がいなくなってしまうかもしれない。原爆被害者の会でこれまでずっと続けてきた慰霊祭も、昨年(2014年)は私が病気で開けなかった。私たちの思いや体験を語り継いでくれる2世、3世の育成を急がなければと思っている。

大村海軍病院が出てきましたので、以下の書籍から、本田稔さんの証言も紹介しておきます。
原爆投下: 黙殺された極秘情報

本田さんは、当時、紫電改が集中配備されていた第三四三航空隊(剣部隊)のパイロットでした。この頃、三四三空は大村海軍航空基地に移動しており、本田さんは8月9日の夕方、被爆者を大村海軍病院に搬送したいので、けが人を病院へ運び入れるようにとの命令を受けます。

大村海軍病院は小高い丘の上にあり、その下を鉄道の線路が走っていた。本田さんが急いで病院に駆けつけると、すでに病院の下に貨車が停まっていた。駅員が「このなかに負傷者がいます」といって貨車の扉を開けた。本田さんが目の当たりにしたのは、この世のものとも思えない凄惨な被爆者たちの姿だった。
「肉の塊が横積みしてあるんです。髪の毛もなければ目もない。体がどろどろに溶けているんです。それが二十ほどあったでしょうか。それを担架で運ぶんですが、持てないんです。手で持ったらぬるっとなって、肉がはずれてしまう。何のために戦争したかと思ったんですよ。国民をこんな状態に陥れて、何が戦争かと思いました」
その被爆者を丘の上に運びながら、本田さんは涙が止まらなかったという。
「僕はパイロットですよ。命がけで敵と戦うのが仕事です。それが、何もしなかった。そして、こうして被害を受けた人を病院に運んでいる。本当に自分が情けなくて情けなくて……。自分にも責任があると思いました。よくぞお前は戦闘機のパイロットだったといえると。いえないですよ、それでは……」

戦後66年たってなお、本田さんはそのときの被爆者の悲惨な姿を夢に見てうなされていたそうです。

大本営発表

前回記事で 広島原爆の大本営発表について触れましたので、長崎原爆の方がどう取り扱われたかも書いておきます。

結論から言うと、長崎原爆は、大本営発表として取り上げられませんでした。
士気の低下を恐れて発表しなかったんじゃないかとは思うのですが、定かではありません。
とはいえ、まったく報道されなかったわけではなく、西部軍管区司令部から以下の発表がなされています。

西部軍管区司令部発表(八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込

同年末までに 7万4千人が死亡したわけですが、「被害は比較的僅少」ということです。さすが一億玉砕とか言ってた国は凄いですね。
ちなみに、大本営発表は新聞一面の目立つ場所に掲載されますが、こちらは現地司令部発表ですので、そういった「縛り」はありません。実際、長崎原爆の新聞記事は、ちんまりひっそりと掲載されました。

最後に

さて、長崎に投下された原爆が引き起こした「風景」をいくつか見てきました。

実は、このような「風景」をもたらした原爆投下に対し、日本政府が取ったアクションはあまり多くありません。敗戦前に米政府に一度抗議してますが、降伏後はそのような動きもなく、さらに被爆者に対する支援もほとんど行なわずに放置しています。
1957年に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が、1968年に「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」がようやく成立*1しましたが、政府の立場としてはこれらを「社会保障」に位置づけており、国家補償とは認めていません。
原爆症認定についての訴訟を耳にされた方も多いかと思いますが、日本政府は、現在に至るまで原爆被害者に対して抑圧する姿勢を取りつづけています。日本政府の日本国民に対する扱いというのは割とぞんざいなのです。

昨今は、国益国益と喚く人が、個人の権利を抑圧するような言動を行なう様が散見されますが、国家というのはそもそも何のためにあるのかというと、個々の人間のために存在しています。
日本はそういった意識を持たない人が多いせいか、割と平気で個人の尊厳を踏みにじっちゃう傾向がありますが、ともあれ、その「日本の国益」とやらは「日本国民の利益」足り得るのか、一度立ち止まって考えてみた方が良いんじゃないでしょうか。まあ、今の日本では言うだけ無駄かもしれませんけど。

……などと余計なことを吐き捨てつつ本日記事を終わります。

 

 

*1:1994年に「原子爆弾被爆者の援護に関する法律」(被爆者援護法)が制定され、2法が統合されました。