Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】病院船橘丸による兵員輸送【日本軍】

前回は「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズとして、「ババル島事件」について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

当該事件は、1944年10月から11月にかけて、インドネシア東部のババル島で起こった、日本軍による住民虐殺事件で、婦女子含めて400名〜700名ほどが殺害されたとみられています。
ババル島事件は、戦犯追求を恐れた日本陸軍第五師団による文書の「書き直し」が利いたのか、戦犯事件として訴追されることはありませんでした。
また、上記記事でも触れた通り、第五師団長の山田清一中将は、病院船橘丸の兵員輸送事件の責任を負う形で自決しており、このことも影響したのではないかといわれています。

……などと、なんの説明もなく「病院船橘丸の兵員輸送事件」とか書いてるのですが、そんなに有名な事件ではありませんので、本日記事にて少し当該事件の説明など。

なお、「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画です。
「世界の」とか言いつつ、もともと日本の登場頻度が高めだったりするのですが、今回は、前回から連続して日本の戦争犯罪ですね。これは、私の趣味範囲によるところも大きいのですが、今回ばかしはそういう流れだったよね仕方ないよねということで我慢して下さいごめんなさい*2

さておき、本事件は1945年8月、日本陸軍病院船の橘丸が戦闘員と武器弾薬を輸送していたことが発覚し、戦後、戦時国際法違反として関係者が裁かれたものです。
なにが問題となったのか、ピンとこない方も少なくないんじゃないかと思いますので、そのへんから順を追って説明を。

病院船を(ちょっとだけ)知ろう

まずは、「病院船」というのはどういうものか、という点について。
現在、国際的に認められる病院船は、1949年8月改正のジュネーヴ4条約中の第2条約に規定されています*3
(病院機能を持つ船は少なくありませんが、ここではジュネーヴ条約に規定される「狭義の病院船」について取り上げます。)

第22条に「軍用病院船」、第24条に「救済団体の病院船」、第25条に「中立国救済団体の病院船」が定められており、これらの船舶を攻撃または捕獲することは、たとえ交戦国であろうとも認められません。

第22条(軍用病院船)を、もう少し詳細に見てみましょう。
軍用病院船は、「傷者、病者及び難船者に援助を与え、それらの者を治療し、並びにそれらの者を輸送することを唯一の目的として国が特別に建造し、又は設備した船舶」であり、病院船は、「いかなる場合にも、攻撃し、又は捕獲してはならない」とされています。
ただし、上記の保護を受けるには、「使用される十日前にその船名及び細目が紛争当事国に通告されること」が条件となっており、また、その通告では登録総トン数、船首から船尾までの長さ、マスト及び煙突の数を含めなければなりません。

第24条、第25条に定められる救済団体の病院船も、軍用病院船と同様の通告が行なわれた場合には、軍用病院船と同一の保護を受けるものとされています。

これら病院船は、遠距離からもそれとわかるよう、標識についても定められています。
まず、外面すべてを白色に塗装し、さらにそこに赤十字マークを描きます。この赤十字は、海上・空中の各方向から識別できるよう、できる限り大きく、船体の各側面・水平面に表示しなければなりません。
病院船は識別のために国旗を掲げ、また、病院船が中立国に属する場合には、病院船が指揮を受ける紛争当事国の国旗も掲げる必要があります。さらに、メイン・マストに、白地に赤十字の旗をできる限り高く掲げなければなりません。

さて、病院船は「傷者、病者及び難船者に援助を与え、それらの者を治療し、並びにそれらの者を輸送することを唯一の目的」とする船舶というのが前提ですが、これを逸脱して、ジュネーヴ条約に基づく保護を悪用されると困りますね。
そのため、第34条には保護の消滅する条件が規定されており、「人道的任務から逸脱して敵に有害な行為を行うために使用」された場合には、保護が受けられなくなります。
(ただし、即時に保護が消滅するわけではなく、合理的な期限を定めた警告を発した上、その警告が無視された場合に消滅する、という流れになります。)

保護が消滅するといっても、当該病院船が違反してるかどうかは確認してみないと分かりません。なので、紛争当事国には、病院船を臨検捜索する権利が与えられます。
また、病院船は、無線電信などの通信において、暗号を使用してはなりません。

著名な病院船としては、米海軍の病院専用船マーシーやコンフォートが挙げられます。

太平洋戦争中の病院船

さて、病院船についての基本的な説明を行なってきましたが、上記は1949年改正のジュネーヴ条約に規定されているものです。
本記事の主題である橘丸事件は1945年ですが、当時はジュネーヴ条約ではなく、「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約(1899年、1907年改正)」に病院船の規定が定められていました。
同条約は、陸戦における傷病者の保護は1864年ジュネーヴ条約があったものの、海戦では適用すべき同種の条約がなかったため、第一回ハーグ条約で採択されたものです(第二回会議にて改定)。

その内容は、病院船の尊重および捕獲からの免除、軍事目的への使用禁止、国籍による差別なく傷病者・難船者を救護する義務、軍用病院船に付すべき標識およびその濫用禁止といった具合で、今回取りあげる範囲では、先に挙げた病院船の規定と大差ありません。
ごちゃごちゃ書いてしまいましたが、とりあえず、病院船を戦闘員や武器兵器の輸送に使ったらアウト、ということだけ押さえてもらえればと思います。

なお、赤十字を描くことができるのは国際赤十字社が認めた船舶で、戦時中、日本陸海軍は、ともに日本赤十字社を経由してスイス連邦にある国際赤十字社に必要書類を提出していました。

橘丸事件

では、本題の病院船橘丸の兵員輸送事件について。

橘丸は、東京湾汽船(現・東海汽船)の伊豆七島を巡る客船で、1935年に竣工しました。
建造は、三菱重工業神戸造船所で、全長76m、全幅12.2m、総トン数1772t、速力18ノット、旅客定員は1230名です。
流線形の外形とモダンな船内装飾が人気を博し、「東京湾の女王」と称されました。
しかし、戦時に入ると、海軍次いで陸軍に病院船などとして使用されることになります。

1945年8月3日、日本陸軍病院船となっていた橘丸は、インドネシアのケイ諸島からジャワ島スラバヤへ向かっていましたが、オーストラリア北方のバンダ海で2隻の米駆逐艦の臨検を受けました。
この時、橘丸には、日本陸軍第五師団歩兵第十一連隊第一大隊と第二大隊および歩兵第四十二連隊の一個中隊、計1562名が乗船していたのですが、病院船において同じ部隊の兵士がごっそり乗ってる、なんてのは明らかに不自然ですね。冒頭でも述べましたが、これらの兵士は傷病兵ではなく、病院船の保護規定を悪用した違法な兵員輸送でした。
兵士らは、全員が病症日誌を持ち白衣を着用していましたが、臨検の結果、赤十字標識が付された梱包から小銃が発見され、違法輸送であることが発覚します。
(実のところ、米軍側は臨検より前に、日本軍通信から違法輸送であることを察知していたようです。)

戦闘員および武器の違法輸送により橘丸は拿捕され、ニューギニア北東モロタイ島を経てマニラへ回航、さらに詳細な調査を受けました。
積載されていた軍需品は、大隊砲、擲弾筒、小銃、手榴弾、通信機器などで、その総量は68トンにのぼったそうです。
乗船者は、捕虜としてルソン島カンルーバン収容所に送られました。

ちなみに、発覚後、各級部隊の責任者が死亡または自決しており、第五師団長の山田清一中将、参謀長の浜島厳郎大佐は8月15日に自決しています*4。このことは、後の裁判に影響をおよぼすことになりました。

捕虜となった兵士らの多くは、捕まって殺されると思っていたようです。殺されずに日本に帰れても、どうせ軍法会議に回されたら死刑になるから帰ってもしようがないと思った、という証言も。
捕虜になった上で処刑されるよりは、反乱を起こして戦って死のうとか、自決しようと考えた方も少なくなかったようですが、そんな中、収容所に日本のポツダム宣言受諾と、広島への原爆投下の情報がもたらされました。歩兵第十一連隊の編成地は広島ですので、故郷の惨禍を知らされた形となります。
これらの情報により、死のうという気が全く無くなった、という証言をされている方がおられるのですが、証言した方だけでなく、相当数の方に同じ傾向がみられるようです。
敗戦や原爆の知らせで、故郷への郷愁が生じたことや、家族らの状況が気にかかったというのが主な理由でしょうか。
また、上記証言をされた方は、捕虜になるのが恥辱である、という感覚もなくなったと話しています。
日本が降伏したことにより、「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」という捕虜観が崩壊したのかもしれませんね。

歩兵第十一連隊の将兵らは、1945年暮れから翌年にかけて復員し、変わり果てた広島の姿を見ることになりました。

横浜裁判

さておき、橘丸事件は、赤十字標識の不正使用として横浜裁判で裁かれることとなります。

事件当時の第五師団は、南方軍の第二軍隷下にありましたが、病院船の輸送は、南方軍で計画されたものでした。
起訴されたのは、南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将、同総参謀副長兼交通隊司令官の和知鷹二中将、第二軍司令官の豊嶋房太郎中将、第五師団参謀の森康則中佐、歩兵第十一連隊第一大隊長の安川正清少佐ら9名です。

ちなみに、南方軍総司令官の寺内寿一元帥陸軍大将は、1946年6月12日マレー半島ジョホール州レンガムにて病死しており、沼田中将はその代わりに起訴されたような形です。
同様に、森中佐は第五師団長と参謀長の代わり、安川少佐は歩兵第十一連隊長の代わりとなります。

また、沼田中将以下の起訴項目には、橘丸事件以外にも、7月1日から31日にかけて行なわれたティモール島、ケイ諸島、ジャワ島間の第四十八師団違法輸送も含まれていました。病院船での違法輸送には、すでに前例があったわけですね。
病院船を使った違法輸送は、前述の通り、南方軍で計画、隷下部隊に命令されたものですが、その目的はインドネシア東部地域に取り残された日本軍を、連合軍侵攻の予想されるシンガポール方面へ転用することにありました。
当時、すでに制空権・制海権は失われており、通常の輸送は困難となっていたことから、病院船の利用が考えられたようです。
(ちなみに、本来収容されるべき重傷兵は、ケイ諸島に取り残されました。)

第五師団が輸送命令を受けたのは7月で、歩兵第十一連隊長に輸送人員の選抜、大森師団軍医部長代理に偽の病症日誌の作成が命じられています。
病症日誌は、患者氏名が偽名、所属部隊が異なるものとなっており、出身地も全国各地に分散されていました。これは、傷病兵が同じ部隊に集中していては不自然ですので、取られた措置ですね。

裁判で、沼田中将は橘丸が輸送したのは1カ月以内に治癒する「軽患者」で、日本軍規則では、軽患者であっても武器弾薬などの個人装備は目的地まで携行することになっていると主張しました。また、橘丸が国際法に違反して使用されているとは思わなかった、と述べて、第五師団が独断で実施したものだとしています。
第五師団の独断によるものだとしたのは豊嶋中将も同様で、第二軍の許可なしに戦闘員や軍需品を積み込んだ、第二軍はそのことを知らなかった、と主張しました。
ちなみに、和知中将は第二軍のせいにしようとしたようです。
(本件とあまり関係ない余談ですが、和知中将は大佐時代に、西南派中国将校等の反蒋和平工作などを行なっています(蘭工作))

判決は1948年4月13日に下され、沼田中将に重労働7年、和知中将に同6年、豊嶋中将に同3年、安川少佐に同1年6カ月が宣告されましたが、他は無罪となっています。

最後に

橘丸事件は、南方軍が計画し命令を発した、組織的な国際法違反です。
しかし、事件発覚後、師団長、師団参謀長が自決し、連隊副官も自決すべきか迷ったのに対して、おエライサン連中は責任逃れに汲々とし、第五師団に責任を押し付けようとしました。
私なんかは、このあたり、いかにも日本的だなあ、なんて思っちゃうのですが、悪い伝統はそのまま残り続けるもので、現政権にも「責任」という概念は存在しないようです。日本国民がまたそれを許しちゃうところに病巣があると思うのですが、まあ、今さらですね。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。

*2:あと、日本は豊富な戦争犯罪歴を持っているので、ネタが尽きないのです……。

*3:こちらで日本語の条文を見ることが出来ます。

*4:余談ですが、第十一連隊の副官の方が、自分も自決すべきかどうか迷われたそうです。ちなみに第五師団より上の第二軍司令官や南方軍総参謀長なんかは、第五師団に責任を押しつけようとしてました。