Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】病院船ぶえのすあいれす丸の撃沈【アメリカ】

前回記事は、「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズ、「橘丸事件」について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

当該事件は1945年8月、日本陸軍病院船の橘丸が戦闘員と武器弾薬を輸送していたことが発覚し、戦後、戦時国際法違反として関係者が裁かれたものです。

当時の病院船は、「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約(1899年、1907年改正)」に規定され保護されていました。交戦国であっても、これらの船舶を攻撃または捕獲することは認められません。
しかし、これにはいくつか留保条件がありました。例えば、あらかじめ船名や総トン数・マスト・煙突数などの通告が必要だったり、病院船と認識できるよう塗装しなければならなかったり、また、軍事上の目的に使用してはならないという制約が定められています。
(ちなみに、塗装については、船体を白色に塗装し、舷側に緑の帯を付した上、各方向から認識できる赤十字を描くこととされていました。)

橘丸事件では、軍事上の目的に使用してはならない、という制約の違反が問題となりました。傷病者に偽装した戦闘員や、軍需品を秘匿して輸送しようとしたものの、米駆逐艦による臨検で発覚・拿捕されています。
(実は、米軍は事前に違法輸送が行なわれていることを察知していたようです。)

さて、上記の通り、橘丸事件は病院船での違法輸送でしたが、病院船にまつわる戦争犯罪では、本来保護されるべき病院船を攻撃した、というパターンもよく見られました。
このパターンの戦争犯罪は日本も連合国もやらかしてるのですが、今回は、米軍が日本陸軍病院船の「ぶえのすあいれす丸」を撃沈した事件を取り上げます。
「世界の」とか言いつつ、本シリーズでは日本の登場頻度が高めですので、一応たまには日本以外の戦争犯罪も扱って、申し訳程度でも「世界」感をアピールしなければならないのです。

申し遅れましたが、本「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、戦争には(割と)つきものの戦争犯罪から、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころは脇に置いといて、あまり知られていないものを取り上げてみようという企画です。記事数がそこそこ増えてきたので、こないだ、カテゴリー化しました。

oplern.hatenablog.com

日本軍があちこちで大量にやらかしまくってるのと、私の趣味範囲の関係から日本軍の戦争犯罪を取りあげる率がやや高めなのですが、一応、アメリカとかイギリスとか他国の戦争犯罪も取り上げてますので、ご覧いただけましたら幸いです。
アレな方々が大好きな通州事件*2についても同カテゴリーに突っ込んでますので、興味があればどうぞ。

ぶゑのすあいれす丸

本来、「ぶえのすあいれす丸」の「え」は旧仮名でしたので、本章のタイトルだけはそっちで書いてみました。
とはいえ、やはりめんどくさいので、以降「ぶえのすあいれす丸」で通させてもらいます。

さて、今回の「主役」となる「ぶえのすあいれす丸」ですが、もともとは大阪商船の南米東岸への定期航路船でした。
日本初の航洋ディーゼル客船「さんとす丸」型の拡大改良型であり、姉妹船に「りおでぢやねろ丸」があります。

建造は三菱長崎造船所で、総トン数9625t、航海速力14ノット、竣工1929年でした。
ぶえのすあいれす丸は南米への移住者輸送などに活躍しましたが、後には、世界情勢に翻弄されることとなります。
1939年の第二次世界大戦勃発による世界情勢緊迫化の余波を受けて、パナマ運河現地で荷役人夫が集まらず難渋したり、日米関係の悪化の一途にあった1941年7月には、パナマ運河が閉鎖されて、仕方なく南米南端のホーン岬回りで帰国したり。
以降は、大連航路に転用されていましたが、1941年11月に宇品から上海まで陸軍将兵を輸送したのを皮きりに、1942年中は陸軍運送船としてダバオ、マニラ、シンガポール方面への部隊輸送に従事しました。
当初、船体に迷彩を施して傷病兵を還送していたようですが、後に陸軍病院船として通告され、白地に緑帯と赤十字を描いた病院船塗装に変更されています。
ただし、陸軍病院船は、作戦の合間に運送船にされたり、また病院船に転用されたりすることがありました。そのため、どの時期にどういう状態だったのか判然としないことがあり、さらには国際赤十字社に病院船として届け出た後に、船体塗色を戦時色(黒、灰色、薄い緑色など)に塗り替えて輸送船として就航させる、なんてこともあったようです。

病院船ぶえのすあいれす丸

病院船に転用されたぶえのすあいれす丸ですが、病院船としての機能は不十分なものでした。海軍病院船では手術室などを完備していたのに対し、ぶえのすあいれす丸は、軍医や衛生兵は乗船しているものの、手術室などは無く、輸送船としての機能しかありません。

ともあれ、病院船として、従軍看護婦隊の輸送や、傷病兵の還送に従事していたぶえのすあいれす丸ですが、1943年11月、米爆撃機B-24の攻撃により撃沈されることとなります。

ぶえのすあいれす丸の撃沈

1943年11月26日。
ぶえのすあいれす丸はラバウル従軍看護婦と便乗員63名、傷病兵らを収容してパラオに向けて出航しました。
この時収容していた傷病兵は、ラバウルおよびココボからの還送者で、1,129名(うち重症者132名)です。
ちなみに、関係者によれば、この航海ではラバウルからパラオに「転進」する将校も、白衣を着て乗船していました。

さて、翌27日午前8時10分、ぶえのすあいれす丸は、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖20マイルの地点にさしかかりますが、この時、飛来したB-24爆撃機の攻撃を受けます。
B-24は、高度1000m前後から爆弾1発を投下。爆弾は、メインマスト基部の左舷に釣りだしたボートを貫き、舷外に落下して炸裂しました。
これにより、ぶえのすあいれす丸は損傷を受け、海水が機関室後部に侵入します。
ぶえのすあいれす丸は船尾から沈み始め、爆撃から40分後の午前8時50分、船首を持ち上げる形で沈没しました。

生存者は、16隻の救命ボート、発動機艇2隻と筏に分乗する形で収容されましたが、その後、1週間ほどの苦しい漂流を経験することになります。
ちなみに、ぶえのすあいれす丸には、戦闘ストレス障害の患者が200名ほどおり、海に投げ出された兵士の中には、放心状態に陥って、いくら呼びかけても救命ボートに上がってこない者がいたそうです。

遭難者らは、1日乾パン一切れと水筒のキャップ大の容器1杯の水しか割り当てられず、昼の酷暑と夜間の冷気に晒されながら漂流しました。
敵機に攻撃されないよう、軍医のアイディアで赤ふんどしを利用した赤十字を標示したそうですが、12月1日には、またもB-24からの攻撃を受け、死傷者が出ています。

12月3日、遭難者らは、チンオン群島西南沖合で、第十六駆潜艇ほか2隻に救助されましたが、爆撃や漂流中の攻撃などで、従軍看護婦を含む158名の戦死・行方不明者が出ました。

ぶえのすあいれす丸撃沈事件のその後

ぶえのすあいれす丸の撃沈は、国際法に違反する病院船への攻撃となります。
そのため、日本政府は、中立国スペインを通じて米国政府へ強硬に抗議、責任者の処罰と将来の保障を要求しました。
これに対して、米国務省からは、標識がはっきりせず、貨客船と信じての偶発事だった、という旨が回答されます。まあ、見ての通り、はいそうですか、と言えるような内容ではありませんので、日本政府はその後も、抗議を行なったようです。

とはいえ、この問題は日本の敗戦もあってうやむやとなりました。
実は、日本側にも交渉に持ち出しにくいというか、あまり大事にはしたくない弱みがあったようです。

前回取り上げた橘丸事件は、病院船による戦闘員と軍需品の輸送という、国際法違反でしたね。はっきりしない点が多いのですが、橘丸同様、ぶえのすあいれす丸も内地から南方への航海で、陸軍将兵を偽装して輸送していたようです。
なお、太平洋戦争終盤では、戦闘員、軍需物資、慰安婦などを病院船で輸送する事例が増えており、特にラバウル方面では戦闘機パイロットまで便乗させたことがありました。

前節にて「関係者によれば、この航海ではラバウルからパラオに「転進」する将校も、白衣を着て乗船」なんてくだりがあったのを覚えているでしょうか。詳細がはっきりしないのですが、撃沈された際の航海でも、将校の偽装輸送が行なわれていたのであれば、これは、病院船を攻撃対象としないことの留保条件、「軍事上の目的に使用してはならない」制約に引っかかります。
これは単なる私の想像ですが、例えこの時に偽装輸送していなくても、ほじくり返すことであちこちに波及することを恐れたのかもしれませんね。

なお、米国務省からの回答はアレでしたが、一応、その後は連合軍による病院船への攻撃が減少してたりします。

最後に

さて、アメリカによる日本側病院船への攻撃である、ぶえのすあいれす丸撃沈事件について取り上げました。
ちなみに、ぶえのすあいれす丸は、撃沈される前にも、1942年7月と1943年4月の二度、連合軍からの攻撃を受けています。1943年の方は病院船として従事している時期ですね。

ぶえのすあいれす丸以外にも、連合軍による日本の病院船への攻撃は結構多かったのですが、逆に、日本側が連合軍側病院船を攻撃したケースも当然ありました。
実際に損害が出た事例としては、豪病院船「セントール」撃沈や、米病院船「コムフォート」に特攻機が突っ込んだ件(大破)なんかが挙げられます。

……と、こんな風に、双方が違反してたとか書くと、「どっちもどっち」なんて簡単に片付けがちになるのですが、実際に大勢の方が亡くなられていることは認識しておくべきかと思います。
現代においても、ジュネーヴ諸条約に違反する民間人、病院、教育施設への攻撃が盛んに行なわれているのが実情であり、「国境なき医師団」が開設した病院が爆撃されるという事態もありました。
国際社会では、ジュネーヴ諸条約について、自分たちに都合よく解釈して利用する国が多かったりしますが、ジュネーヴ諸条約を含む国際人道法は(限界はあれども)我々人間の命の尊重を国際的な義務とするものです。これを「シニシズム」でもって片付けるのは簡単ですが、国際人道法の軽視は、いずれ自分や周辺の人々にも跳ね返ってくるでしょう*3
そんなわけで、私は、戦争犯罪に対し関心を持ち続けることは、非常に重要なことだと考えています。
ところで、最近「人権」とか「人道」を嘲笑する方が増えてる気がするのですが、こういう方々は、人権が無くても非人道的行為をされても平気な、凄い人たちなんでしょうね。

…などと、最後に余計なことを吐き捨てつつ、今回記事を終わります。

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。

*2:中国河北省東部にあった日本の傀儡政権、冀東(きとう)防共自治政府の配下にあった治安維持部隊(保安隊)による反乱事件。「保守」派だか、中韓叩き快楽者だか、とにかくそっち方面の方々が大喜びで取りあげることが多いのですが、あれだけウザく熱く語ってくる割に、冀東政府が傀儡政権だったこととか、殺害された日本人居留民の半数は朝鮮人だったという情報をばっさりカットしてきたりします。なにか不都合でもあるんでしょうかね?(白々しく)

*3:跳ね返り方には多様なパターンが予想されますので、人によっては、それが跳ね返りだと認識できないかもしれません。