Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】徴用船と船舶運営会を(ちょっとだけ)知ろう【戦時の商船利用】

約2週間ぶりの更新となります。
先週は体調を崩してしまっていました。皆様方も体調にはお気をつけ下さい。

さておき、前回、前々回と病院船がらみの記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

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上記の病院船は、平時より運用されていたものではなく、橘丸は東京湾汽船の客船を、ぶえのすあいれす丸は大阪商船の南米東岸定期航路船を、病院船に転用したものです。

病院船に限らず、戦時においては民間船舶を兵員や軍需物資の輸送に用いました。
第一次世界大戦では、日本は連合国側に加わって、中国青島に展開していたドイツ軍と交戦していますが、当時、日本陸軍は兵員輸送に用いることができる船舶を保有していなかったため、船舶会社に対して輸送船を募集しています。
このような船舶は、当時「御用船」と呼称されました。しかし、太平洋戦争開戦後は、一般に「徴用船」と呼ばれることとなります。
本日は、この「徴用船」について少し。

ところで、しばらく前から、「徴用」といえば徴用工問題が真っ先に頭に浮かぶ方も多いと思うのですが、当ブログでは当面取り扱う予定はありません。
他人任せでなんですが、こちらの動画が良かったので、徴用工について気になる方にお勧めです。

www.youtube.com

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閑話休題
次節より、徴用船と、それから、徴用船に深く関係する国策団体「船舶運営会」について取り上げます。

徴用船と船舶運営会

さて、太平洋戦争開戦後、しばらくは昔ながらの「御用船」という表記が見受けられましたが、1942年4月に、民間船舶の一元管理を目的とする国策団体「船舶運営会」が設立されて以降は、「徴用船」と呼称されることが一般的になりました。

船舶運営会は、1942年3月24日公布の「戦時海運管理令」の規定に従い、3月25日の逓信大臣による設立命令に基づいて特殊法人として設立されたものです。
逓信省海務院の代行機関となる船舶運営会は、海務院が立案計画した戦時海運管理政策に基づいて実際の配船業務を一元的に掌握し、運航の責任を担うものとされました。
主管は逓信大臣ですが、外地では朝鮮・台湾各総督、南洋・樺太各長官が主管に当てられています。

船舶運営会の総裁・理事長・理事といった首脳部には、日本郵船や大阪商船などの大手海運会社の代表が就任しました。
発足当初は5班制度で構成されており、日本郵船、大阪商船、三井船舶、山下汽船、川崎汽船の各社が班を纏める責任会社(班長)に割り当てられています。

ちなみに、前述の海務院は、1941年12月18日公布の「海務院官制」(勅令第1144号)に基づき、管船局と灯台局の業務を統合して、逓信大臣の管理下に設置されました。
水運・造船・船舶の監督関係事項、航路・港湾・灯台、船員養成、商船学校関係事項などを業務としています。
海務院は、逓信大臣の管掌下にあるのですが、船員教育など一部の事項は海軍大臣の指揮監督を受けることとされていました。
人員構成的にも、海務院長官に原清海軍中将、船員部長に若林清作海軍少将があてられたり、その他職員も逓信省と海軍の半々となってたりと、全体的に、海軍の影響力の強い組織となっていたようです。

さておき、船舶運営会は、1942年5月1日より業務を開始します。
戦時中の船舶は全て船舶運営会が管理していますが、これら船舶は政府から貸下げられたものでした。
政府は、船舶所有者から所有権はそのままに船舶を徴用し、これらを船舶運営会に貸し渡して運航させています。船舶の使用料金については、船舶運営会が政府に支払い、政府から船舶所有者に支払う、という流れになっていました。

また、陸海軍が徴用船舶を利用する際は、船舶運営会から船舶を傭船します。傭船料金についても船舶運営会に支払いました。支払われた料金のその後の流れは、上記と同じで、船舶運営会→政府→船舶所有者、という形になります。

徴用対象の民間船舶は、陸軍徴傭船(A船)、海軍徴傭船(B船)・民営船(C船)に大別できますが、陸海軍は、徴用船の中から建造年が(比較的)新しい高性能の船舶や、輸送能力が高い船舶を傭船契約して運用しました。
C船については、船舶運営会が配船業務を担当しています。

ちなみに、開戦前の御前会議(1941年11月5日)での鈴木貞一企画院総裁の発言によれば、「民需用トシテ常続的ニ最低三〇〇万総噸ノ船腹」が必要ということでしたが、本来C船への転用を予定していたA船・B船が戦局悪化により解傭されなかったり、さらにはC船指定の船舶も陸海軍に回されるようになったりと、あまり上手いこといってません。
なお、ガダルカナルを巡るA船徴用では、1942年12月5日に、参謀本部第一部長の田中新一中将と陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将が殴り合い(比喩じゃありません)になったり、更に翌6日には東條英機首相が田中新一中将から「バカヤロウ」と言われたり(これにより田中中将は更迭)という、面白い事態が生じています。

戦局悪化に伴う喪失船舶の増大により、日本全体の保有船舶の絶対数は減少の一途をたどりますが、これに伴い船舶運営会の5班制度も形骸化していくこととなりました。

船舶運営会のその後

1945年4月19日、最高戦争指導会議において「国家船舶及港湾一元運営実施要綱」が決定されました。
これに基づき、大本営の下に海運総監部が設置されますが、船舶運営会は同部の別室に位置づけられることとなり、広島県宇品に移転してC船の配船業務を継続しています。

日本は、1945年8月14日に、ポツダム宣言を受諾、敗戦となるわけですが、船舶運営会はこの後も連合国軍総司令部GHQ)の下で配船業務を継続することとなり、「戦時海運管理令」も暫定的に継続されることになりました。
終戦処理の一環として、在外日本人の引揚に関する配船業務(帰還輸送)にも従事しています。

1950年3月31日、「船舶運航令」が公布されて海運が民営に戻されると、船舶運営会は「商船管理委員会」と改称され組織も縮小されました。
商船管理委員会は、帰還輸送・アメリカ船の運航・外航配船の管理を行なっていましたが、1952年3月31日に解散。船舶運営会はその役割を完全に終えることとなります。

配当船と指定船

陸海軍が傭船契約して使用した船舶は、陸軍徴傭船(A船)、海軍徴傭船(B船)といいましたが、これとは別に配当船、指定船なんてのがあります。

配当船は、陸海軍が徴傭した船舶のうち、片道に限って軍に関係する輸送に従事した船舶のことです。
(往復とも軍の輸送に従事した場合は、普通に徴傭船ということになります。)

指定船は、船長を含む全乗組員名簿を海軍省に提出することで、海軍省が海軍軍属と認めた乗組員により運航される船舶を指します。

なお、配当船・指定船はBC船と呼称されました。